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オペラハウスの森《A Forest of Lines》

英語さえ乗り越えれば、世界には、いろいろな情報が溢れている。社会人向け大学院の現代アート研究、修士論文でピエール・ユイグについて書こうと考えたとき、日本語の資料は『岡山芸術交流』に関連した美術手帖の記事くらいしかなかった。ところが、英語の先行研究は山のようにあり、早々に情報収集を英語で行うことに切り替えた。本職は外資系ソフトウェア企業、そこで情報を得るのは英語のため、英語のWebクローリングは、それほど苦にはならなかった。そして、ユイグは結構インタビューに答えていることが分かった。遠くない将来に自動翻訳機的なものは出現すると思うけど、英語は使えるようになった方がいい。

今回のリサーチで発見したことは、米英豪と英語でアートを説明するテキストの書き方から、微妙なニュアンスの違いを面白さとして感じられるようになったこと。副次的に英語の読解力が上がったような気がする。これを機会に、英語をもっとブラッシュアップしていこう。さらに、ユイグ研究では、ドイツ語とフランス語のテキスト(外資系企業に勤務していると英語+多言語を話せる知り合いができる!)も閲覧した。こうした情報が自宅から手に入る。(ティム・バーナーズ=リーに感謝)リモートで世界は広がり、狭くなった。


2008年のシドニー・ビエンナーレのユイグの作品《A Forest of Lines》(2008)について書かれたテキストとメルボルン大学のアメリア・ダグラス(Amelia Douglas)によるインタビューを読んでのもの。


《A Forest of Lines》は、シドニー・オペラハウスのコンサートホールに千本の本物の木が移植された作品。2008年のシドニー・ビエンナーレのプロジェクトだった。

コンサートホール内に森が出現し、そこは迷路になった。オペラハウスの中に出現した迷路、探検することで、観客はパフォーマーとなる。ユイグの得意技とも言える移植と変容。コンサートホールという文化施設の中に出現させた森。森は古くから、何かが起こる場所であり、人と獣との領域の境界でもある。(日本の意識だと森を山にすると近しいイメージになるような気がする。)シドニーの都会の中に構築された森、都市と自然、あるいは文化と自然。虚構と事実の間を見せるかのよう。森は人工的な照明に照らされ、人工的なフォグが立ち込める。

オペラには深いセンセーショナルなものがあり、それは文化の縮図であり、さらにシドニー・オペラハウスはその建築と美学で国際的に知られている。このように、文化、ヒューマニズム、進歩を象徴する場所に森を建設することで、自然対文化というデカルトの二元論が完全に覆されるのである。

都市と自然という二項対立を見せつつも、都市生活者を森の世界へ誘う。森の中では、ローラ・マーリングによる音楽が鳴り、その歌詞はオペラハウスの外に出る方法を示している。24時間のみ存在する解放された森で、歩き回る人、ピクニックをする人があったらしい。

観客は夢としか言いようのない世界を探検する機会を与えられた。


ユイグは、シドニー・ビエンナーレでオペラハウスを選んだことを次のようにコメントしている。

オペラ座を使おうと思ったのは、表象と表現の場を探していたから。演劇、スペクタクル、オペラ、場所と象徴的な建物について考える。神聖なオペラシティだったので、不遜なものが必要だった。

オペラ座が時間軸のプラットフォームであり、そこに森が移植された。

森あるいはジャングルというのは何か、定義できないぼんやりとしたもの。それは変化し続ける多元的で異質で複雑なものであるとしている。そして神秘性のある場所に不遜が必要だとしている。

ダグラスによれば、オペラハウスは歴史と伝統があり、シドニーを代表する建築物であるが、世界遺産に登録されている建物としては一番新しい。オペラハウスは神聖な場所と言っている。それに応えて、ユイグも森をオーガニズムとし、神秘性があるとしている。

では、不遜なものは何か?

 森はフィクションや物語の場所であり、それは恐怖の場所であり、物事が起こる場所です。

千本の木が構成したのは迷路、霧が立ち込めており、照明は確認できるものの、鑑賞者はヘッドライトをつけて森の中に入る必要があった。そうした鑑賞者のヘッドライトが霧の中で光の道を作り出した。

ホールの中に流れる音楽は、オーラル・マップ。迷路からの脱出方法を奏でてている。舞台と客席、客席と客席、その分離と空間はこの作品によって、そうした役割というか関係性が消されている。それを「空間的・社会的なプロトコル」が無くなっていると表現している。

鑑賞者が選んだ道によって、ヘッドライトが、光の彫刻を刻む。

ローラ・マーリングは語り手となり、オーラル・マップとしてオペラハウスから社会生活に戻る方法を歌として観客の耳に届ける。アーティストは、これを「明日も5年後も、誰かが聞いたときに、あなたが従うことができる。これを思い出せば、いつでもこのイメージに辿り着ける」という。

記憶への実験だろうか。

表現空間の中の環境のイメージ、それは幻影のようなもの。


オペラハウスは「スペクタクル」を想起させる。その概念に添えられる言葉にエンターテイメントがあるという。

楽しませることは維持することであり、フランス語で divertissement(ディヴァティスモ)とも言います。

転用と魅力という考え、アーティストはスペクタクルを他の何かからではなく、出発点として、運動としての転用、シフトが起こるようにするための変位を作り出すためにトリックとした。ナレーション、脱出するための指示をするオーラル・マップに従うまでは、鑑賞者は森に迷い込み自我が溶けていく。


人を丸ごと食べる木の物語。デインツリー熱帯雨林。地球最古の熱帯雨林。キャプテン・クックが、この森を発見したときに人を食べる木があると誤解した。アボリジニは、木のうろに死者を葬った。キャプテンクックは木の中の人骨を見て、絞殺者の木が人を食べると信じた。

クックが日記に書いた実話で、今では神話になっています。

その神話を参照し、森の中に人を誘導し、歌によって暗喩する。鑑賞者は見ているものだけでなく、耳から入ってくる情報にも注意を向ける必要がある。

オーラルマップは、オーストラリアのアボリジニの伝統に由来しています。
風景と夢の 環境を伝えるものであり、また、その中に自分自身を見つける方法。風景は物語である・・・。

歌うことで、自分の道を見つける。

個人のGPSとなる。

時間を空間的に表現する試み。

アンリーは空っぽの殻だった。ここでは、語り手は道を見つけるための乗り物です。文字通りにも概念的にも この曲は実はアートワークの説明を与えてくれます。(中略)他の場所への行き方の情報の羅列あるいはコスースの椅子とその定義やイメージについても。

ユイグは、アートについてのアートを作ることでは絶対にないという。コスースの芸術のためのものであるべきだという主張への反論。常に芸術の定義、境界線を押し広げていくこと。


作品はエコロジーにならなければならない有機的なシステムでは交換がありそこには変革が起こり、その動きが生産につながる。これは硬直したモニュメントの対局にあるもの、有機体は呼吸をする。

作品は変化する。


参考文献:Amelia, Douglas. (2008). A Forest of Lines: An Interview with Pierre Huyghe. EMAJ : Electronic Melbourne Art Journal. 10.38030/emaj.2008.3.1.






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