オープンソースと社会課題
オープンソースの仕組み、みんながソースコードを閲覧して改善していくことができる。時に深刻なセキュリティ・インシデントを引き起こすことがあるけれど、全てが公開されていることで、世界中のプログラマーが問題解決のためのアイデアやコードを提供、改善することができる。ソフトウェアを巡るディスカッションは、ソースコード以上に、アイデアを提示し、交換し、よりよいプログラムを開発していく動きになっている。
結構古い記事、ここでLinuxの話題がでていたことが記憶に残っている。それがオープンソースに着眼した理由。
個と公についての議論、これが第九回で、ボリュームのあるテキスト。検閲と表現とポリコレについて、社会における寛容さがどのように変化してきたのか。LinuxはTHE SEASTEADERS の話題からの参照、都市計画のLinux版といいう文章で紹介されていた。
みんなの意見を聞く。民主主義の基本であるけれど、成熟した社会では自分の参加意識が乏しくなり、権利だけが巨大化していく。みんなが権利を主張したら破綻する未来しか待っていない。我慢とも違う。
オープンソースは、プログラムを書けることが、コミュニティに参加する前提になる。ソースコードの話題だったら言葉の壁は幾分低くなる。僕も昔、ApacheのとあるJavaライブラリにコントリビューションしたことがある。どんなに小さなコードであっても、参加する前と後では、コミュニティが違って見えた。
ユートピアのように見えるけれど、そういうわけではない。ソースコードが見えているというからには、脆弱性も見つけられるということ。そうした脆弱性をふさいでいこうというのがオープンソースのそもそもだと思うけど、善意の人は修正し、悪意の人はそれを利用する。コミュニティには、そのどちらも存在する。清濁併せ吞むではないけれど、それでもうまくいっている。
このことを都市に応用するとしたらどうなるか。
都市計画の有識者が決めたことが完全無欠とは思えない。かといってソフトウェアと違って、物理的な建築物や構造物がある以上、参加するためにはより一層の知識が要求される。しかしながら都市OSの考え方は物理的な町の構造に限らない。
どちらかといえば、建築や土木が主体だった都市計画にソフトウェアの考え方をインストールしよう、という風に見える。
本職のソフトウェア企業の仕事をしていると、どうにもデジタルに関して、日本人は苦手意識を持っているように思えてならない。空想や想像の話が特異で、日常生活に様々な精神性を見出しているのに、それがソフトウェアとして目に見えないが存在することがギャップなのだろうか。
冒頭のテキストを読み返そうと思っていた所、卯城 竜太の新刊が出た。なんと40万字という。当分は、こちらを読もう。
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