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フィールドワーク 西陣

京都西陣のリサーチをしているゼミの同級生がある。

大阪の副業(ファッション・アパレル業向けコンサルティング)の関係で出張する機会があった。出張の日程を拡張してやりたいことをやっておこう。名古屋でゼミ同級生が現代アート写真のギャラリーをオープンさせたので、名古屋に寄りつつ、京都でピピロッティを見る。そして、滞在日程を調整して、別のゼミ同級生のリサーチに同行させてもらった。

冒頭のイメージは東陣、西陣は一定のマインドシェアがあるが、東陣を聞きなれている人は少ないと思う。同級生によれば最近になって取り上げられてきたという。公園の中の掲示板も最近になって整備されたということ。今更になって西陣の意味を取ることができた。

室町幕府の調査・研究もそれほど熱心に行なわれていない。現在は花の御所の石碑があるだけであり、この石碑も近年設置されたもの。

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同志社大学のキャンパス建設時だったか、発掘された柱跡などから、米沢に保管されている大和絵の通りであったことが伺えるという。確か米沢旅行の際に、そうした大和絵をいろいろと見た。卒塔婆小町の大型図録など、中世日本の資料がいろいろと整備されていた思い出がある。米沢では上杉鷹山が人気だった。


妙顕寺からリサーチを始める。

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日蓮宗の大本山、威風堂々としており、オベリスクのような塔に視線がいく。整備された境内は一分の隙もなく、緊張感があった。

この後は表千家と裏千家を門外から見学する。

確か前職でお茶の先生があった。流派は聞いていなかったものの、茶道は仏道にも通じるということを聞いた。修行の道である。日本でいうところの道、それは到達するところのない果てのないものだろうか。自分は空手道を歩んでいたが、途中で行き止まりに突き当たってしまったのかもしれない。

ここから本格的なフィールドワークに入っていく。

西陣界隈のお地蔵さんを巡る旅、平安京からの歴史、遷都したのは、火事が多いし、水はけも悪かったから。当時の交通事情から考えても平安京は大きすぎたみたい。


西陣に限らずだけど、京都市内のほとんどの場所は、掘れば何かが出てくるらしい。家を建てる際に出てくる石仏。それをお地蔵さんとして通路に建てた小さなお堂に安置している。

中世からのメッセージのような石仏、地蔵菩薩であることは稀なようで、一つの石に二つの仏が掘られた石仏などもあった。

こうした痕跡について歴史的な考証はほとんどされていないらしい。年代測定はできるだろうけど、その当時の風習だったのか、流行だったのか、何が人々を動かしたのか、今となっては知る由もない。

近年の人達が建てた地蔵堂も様々である。簡易的なものから、宮大工の手によると思われるものまであり、花が飾られ、前かけがかけられ、生活の一部として、人の痕跡が多少に渡って感じられる。こうした地蔵堂は表通りだけでなく、路地の奥にも建立されていることがある。誰かの敷地なのか、生活道路なのか、入っていっていいものか戸惑うような路地、社交的に人を受け入れるような路地もあれば、視線すら拒否している路地もある。通り一本、ほんの数十メートルも進めば、街の雰囲気がガラリと変わる。中世から続く都市の呪力のようなものだろうか。

「私の家」、「私の路地」、「私の町」という具合の広がり、その意識が向く先の違いによるのか、身内の範疇の違いなのか、通りによって感じる力に違いがあった。

はっきりお地蔵さんとわかる石仏があるかと思えば、ただの石ではないかと思うものもある。実際、ゼミ同級生の解説がなければ、敷石だったものを誤認しているのではないかと思うものもあった。これは石工の熟練度か、単純に時代の前後による差異なのかと考えたが、後になって、それほど裕福でない家が石工に頼むことが叶わず、素人ながらに石を穿ったのではないかという可能性も考えついた。


千本ゑんま堂に到着する。

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本堂脇にお地蔵さんが集積していた。自分の庭から出てきたお地蔵さんをお堂を建てて建立することもあれば寺に寄贈することもあるらしい。


東山区の六道珍皇寺に地獄に行くための井戸があるという。

この神話を信じている人とそうでない人とがある。京都の日常における信仰と伝承、井戸の話に限らずだけど、そのような逸話を作り話と捉える人達もあるだろう。京都において脱神秘化が、どのように起こっているのか。とても興味深い。コミュニティに関係がありそうだ。


京都ほど日常生活と寺社と信仰が結び付いた町は、なかなか無いと思う。


釘抜地蔵は、七夕飾りがあった。この時、御百度参りの参拝者があり、生活と信仰が結びついている印象を強くした。

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奥の墓地を見学する。

既に無縁仏になった墓を一箇所に集めて整備したという。そこには首の無い地蔵が多く見られた。

何代も重ねているうちに墓守が居なくなってしまったのだろう。墓石を集積するという告知は、数年もの間、掲げられていたらしい。

ふと、土の中から出てくる石仏について思いを巡らせる。

日本人は伝統的に木と土と草と紙の家に住んできた。それは儚く、火事や水害、地震などの災害に対する反応であり、スクラップ&ビルドを前提とした住居形態だったように思う。

日本の土壌は有機物を分解しやすい特徴があり、古代の建造物の痕跡や、人を含む有機物の痕跡の発掘に影響がある。みんな土にかえってしまう。

そこに石を持ち込む。

石仏として永続性を込めたのだろうか。最早、どんな理由で、誰が、石仏を作り、どのように扱われてきたのか、想像するしかない。

翻って、冒頭に見学した「花の御所」の石碑に想いが飛ぶ。近年設置された石碑、中世日本人にとっての石、路地を回ったリサーチでは、数十年ではないスパンで、こうした石仏が作られていたことが分かる。(正確には年代調査が必要だろうけど、石仏の形状から想像するに数百年の間に渡って、こうした文化があったものと想像する。)

この街角の地蔵堂の建立は歴史を依り代にした再神秘化のまじないなのかもしれない。


フィールドワークの締めくくりは千本釈迦堂へ。応仁の乱の戦火に巻き込まれずに残った鎌倉時代の建物。

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ようやく辿り着いた千本釈迦堂だが、緊急事態宣言を受けて午後3時までの拝観だった。京都の地元のゼミ生が同道していたものの、ここに辿り着くまでに相当迷った。周囲をグルグルと歩いた。釈迦堂の塀に辿り着いたが、そこから左右に移動しても袋小路に突き当たったり、通り抜けができそうだったけど小路だったり。

細い路地で地元の人に確認したりして、ようやく辿り着くことができた。

そこに見えているのに辿り着けない。京都は迷宮だと思う。

京都の生活と信仰と神秘化、積み重ねてきた時間、ゼミ同級生がリポートしていた多層性。街をつぶさに歩くことによって、そうしたレイヤーのいくつかを体験できたような気がする。

空を飛行するものは、風景の中で街道が開けていくのをただ眺めるだけであり、歩行する者のみが、道の持つ支配力を知るのである。(P.162)


寺、石仏、地蔵堂、路地、そこに暮らす人々、みんながみんな、そこにそうしてあることが必要だったように、欠かすことができない。京都西陣という地域を形成している。平安の時代、鎌倉の時代、室町の時代そして令和の時代。悠久の時間を見せられているような、そうしたフィールドワークだった。そうした多層性は折り重なって、現代に脈々と継承されている。それが、将来を見通す鍵となるのだろうか。



ゼミ同級生には、是非ともこうしたことを作品化してほしいとお願いした。念頭にあったのは、フィールドワーク展。



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