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ビデオテープをどうしたものか

気が付いてみたら全然観てない。というか、その存在から目を逸らしていると言っても間違いではない。ビデオデッキとビデオテープである。

今や録画はすべてHD。便利だし容量がやたらデカいし。整理もしやすくて、ビデオテープ時代の悩みが全て解消されている。カセットテープで音楽を聴いていた頃、MDの出現に驚愕し、カセットを捨ててMDに飛びついた時の進化を遥かに超えている。

だから、我が家のビデオは忘れ去られた。

思えば30何年か前、初めて買ったビデオデッキはベータだった。当時はまさにベータvsVHSの時代。ケースが小さく、録音再生の即応性が優れていて、画質も良い。そんな基準で比較購入した記憶がある。

カメラも買った。デッキも家庭用としてはハイエンドの一つ下ぐらいのを買ったから、トータルの出費は月収を遥かに超えていたと思う。

随分と使った。記念になるような映像記録も沢山撮った。満足していた。でも、世の中の流れは違った。ベータはあっさり敗北した。

それでもベータに拘り、粘り続けてみたものの、いつしかハードもソフトも市場から消えて行き、愛用のデッキの故障とともにVHSへの移行を余儀なくされた。

もうひとつ、カメラの方はカメラの方で、取り巻く環境は大きく動いた。

愛用のベータのカメラはデカかった。肩に担ぐスタイルで撮影するタイプだった。VHSはVHS-sの開発で劇的にカメラが小型化し、市場に出回るのを横目で見つつ、大袈裟な撮影スタイルを得意げに誇示していた。

そこに8㎜ビデオが現れた。ベータと同じSonyさんの製品と言う親近感にも後押しされて魅力を感じていたところに、何と懸賞に当選して頂戴できるという幸運に恵まれ、あっさりとベータから乗り換えた。

そんな経緯で、我が家には、ベータ、VHS、8㎜という3種のビデオテープが同居するに至った訳である。

そして、当たり前のことだけれど、タイミングと言うのはどこからともなく突然やって来るもので、しばらくしまい込んでいて目にする機会のなかったビデオテープたちのことを突然として意識する機会がやって来た。

敬愛する小説家の一人、京極夏彦氏の「オジいサン」を読んだのだ。それがどうしてビデオテープに繋がるのだと、同作品を知らない方には、唐突過ぎて何のことやらサッパリ分からないと思う。

この作品の主人公である益子徳一氏は、独り暮らしの72歳。彼の日常に起こる様々な、そして決して珍しくも何ともない出来事について、彼の脳裏に湧き上がる思慮思念をストレートに書き綴った作品とでも言おうか、一人の高齢男性のありふれた日常が坦々と一人称で描かれていく。

その冒頭のエピソードで、いきなりカセットテープの始末について語られるのだ。

無駄なものは殆ど置かない益子氏の生活において、かつて旧友から贈られた音楽テープは、先ず聴くことはないだろうが、捨てるには忍びないものだった。しかし、彼は意を決して捨てようとする。

そこで彼の決心を鈍らせたのが、それが不燃物なのか可燃物なのかという疑問なのだった。常識ある益子氏は、自治体のルールをしっかりと守るべく、カセットテープの分別について激しく逡巡するのだった。

待てよ…これは我が家にとっても重大な問題。長いこと放置し続けているビデオテープたち。あれは、このまま所持していても観ない、いや、観れない代物なのではないか。膨大過ぎるし、そもそもデッキは使えるのか。

もし、新型の感染症で自分が急死でもしてしまったら、遺族はあんなものを処分するのに心を悩まされてしまうのではないか。

だいたいからして、事はビデオテープで終わらない。自分の所有物の数々は、いや、決して大した資産ではないけれども、いやいや、資産価値がないからこそ、元気なうちに、判断力が鈍っていないうちに、自らの手で何とかしなければならないのではないか。

そう、今こそ終活開始の時なのだろう。思いもかけず、京極さんの作品に気付かされ、更にはコロナ禍に背中を押されたのだった。