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自分の中で折り合いをつけた事を掘り起こしてみた結果の話。

私の大好きな、ららみぃたんさんが、こんな企画を立ち上げておられました。

まず読んでみて、むむ…私には難しいのでは?何度か読んで色々と考えてみました。あんなことかしら?こんなことかしら?

そんなある日、note界の歌姫、おぬきのりこさんが企画参加の記事をあげられたのです。それがこちら。

なんと、「一元観」についての解釈から、ご自身の体験まで、私自身が「そうか。」となり、もちろんのりこさんの体験談も心を動かされるものでした。

そしてそして、昨日の事。フォローさせていただいている、そいさんの記事を目にしました。

現役の中学校の教師をされているそいさんが経験した、教師として駆け出しのころ、必死で作った授業を「盗作だ」と言われたというトラウマについて書かれていました。それを読んで私はコメント欄に、自身のトラウマについて書き込みました。

長文の自分語りをするたちの悪さ


実は、このエピソードは私がなんでも話すマブダチの一人にしか話していない内容なのです。
他には誰にも話していません。

彼女はこれからのPTAの為に、そして活動する保護者のために改革をしようとしていました。そのためには様々な周りからの軋轢にも耐える覚悟をもっていたようです。
私は、もちろん彼女の考えも尊重しつつ目の前のタスクを一つずつこなしていき、和をもって、誰もが心地よく活動できるようにと考えていました。そこに価値観の相違が生まれ、しだいに彼女は私の全てを受け入れられなくなったのです。

ざっくり過ぎる「彼女」との関係


文字にしたり、誰かに話す事を躊躇していたのです。
理由はいくつかあります。
一つ目は、当時の事を思い出すから。
定例会の為に集まってテーブルに着くと、がくがくと勝手に震えだす手を思い出します。
お風呂でシャンプーの時、明らかに多い抜け毛を思い出します。
私への嫌悪感を、視線と口調と表情で表現した彼女の姿を思い出します。
二つ目は、情けないから。
息子を否定されたのに、それに反発することもせず、とにかくこの状況から逃げたいと自分を守る行動として先生に声をかけた自分が情けないから。
あばれはっちゃくの父親を上回る情けなさです。

それなのに、ほんの数回コメントを往復しただけのそいさんのコメント欄になんとなく書き込んだのです。
もちろんそいさんのお人柄を日々拝見し、気持ちを委ねられる人だと確信した事も要因の一つですが、早くこの自分の負の思考から解放されたいと思ったのだと思うのです。

そして今朝、コメントの返信をいただきました。

なんと…良い意味で予想を裏切られた私


私は衝撃でした。そいさんからの先生目線の返信です。

私は「先生が単純にそう思っている感想」だと思っていたのです。
それを、自分が都合よく救いの言葉だと解釈していると思っていたのです。
それで何となく折り合いをつけて自分を納得させていました。

ところが、この返信をもらって、「あぁ…確かに…そうか!この言葉はただの感想ではなく、私の心に寄り添ってくれた言葉だったのか!」と思ったのです。
先生に救われたと考えて折り合いをつけていた過去の私が、そいさんのおかげで改めて救われた瞬間でした。

あぁ、ひょっとしたらこれが、ららみぃたんさんの言う「一元観」なのかもしれない。

noteは本当にありがたい場所です。私は日々、脳みそをモミモミとマッサージされている気分です。
刺激と心地よさ、そして新たな気づき。感謝しかなーーーーーい!


読んでいただきありがとうございました。