徳島ヴォルティス史上最も偉大な男 ~佐藤晃大の功績を辿る~
まえがき
2023年1月5日、佐藤晃大の現役引退が発表された。
2022年11月27日の段階で契約満了が発表されていたため、徳島の選手として佐藤のプレーが見られなくなることは決まっていたのだが、この時点では現役続行を表明しトライアウトにも参加していた。
インタビュー記事によれば、オファーはあったものの家族のことを考え引退を決意したとあり、まだまだ選手として求めてくれるクラブはあったようだ。
引退後は徳島ヴォルティスに入社し営業部と兼任でクラブコミュニケーションオフィサーとして働かれるとのことなので嬉しくはあるものの、一度は現役続行を表明していたため他のクラブでもまだ佐藤のプレーを見られると期待していた点については寂しさも大きい。
佐藤晃大の功績
本記事ではその功績を振り返り、なぜ佐藤晃大が徳島ヴォルティス史上最も偉大な選手なのかを紐解いていきたいと思う。
3年連続Jリーグ最下位のチームに加入
JリーグがJ2までしかなかった当時、J2の最下位はJリーグの最下位を意味する。
徳島ヴォルティスはJリーグ参入2年目の2006年~2008年の3年間Jリーグで最下位だった。
そんな最中、佐藤は2009年に東海大学より大卒ルーキーとして加入した。
プロサッカー選手という夢のある職業からオファーが来たとはいえ、そんな弱いチームからしかオファーがないのなら一般企業に就職という道を選んでもおかしくはない。
2005年以降徳島は7人の選手をルーキーとして獲得したがほとんどの選手は数年以内に契約満了、上のクラブへステップアップできた選手は一人もいない。
そんなクラブに飛び込んできてくれたことがまず大きな選択である。
徳島ヴォルティス史上初リーグ戦ハットトリック達成
1年目(23歳)17試合4得点(現時点で生え抜き選手の1年目得点数トップタイ)
2年目(24歳)26試合5得点
と、佐藤は徐々に出場試合数と得点数を伸ばしていく。
迎えたプロ3年目(25歳)の2011年6月25日J2リーグ第18節湘南ベルマーレ戦
佐藤は徳島ヴォルティスクラブ史上初のJリーグでハットトリックを記録した選手となる。
これまでカップ戦でアマチュアチーム相手のハットトリックはあったが、リーグ戦でのハットトリックはこれが初となった。
2005年のJリーグ参入から7年目、徳島ヴォルティスはそれまでのエースストライカー羽地登志晃をもってしても記録できていなかったのがハットトリックだった。
他のクラブで実績のある選手や上位クラブで出場機会のなかった選手が主力のほとんどだったクラブにおいて、初めてハットトリックを達成した選手が生え抜き選手の佐藤晃大であるというのは徳島ヴォルティスにおいて大きな意味を持つ記録となった。
インタビューの中で「最近はハットトリックした選手がたくさん出てきてませんか?」と話しているが、確かに2017年以降J2のシーズンでは毎年ハットトリックが生まれている。
しかし今とはチームの戦力もリーグでの立ち位置も違うあの頃に、誰もなし得なかったハットトリックを達成した重みは比べようのない数字以上の価値がある。
ちなみにハットトリックを達成した対戦相手の湘南ベルマーレのスタメンには、後にチームメイトとなる岩尾憲や、ブンデスリーガでデュエル勝率1位を記録しカタールW杯で中心選手として活躍した遠藤航がいる。
最終的にプロ3年目は36試合9得点を記録し、完全に徳島ヴォルティスの主力へと成長を遂げた。
この活躍がきっかけとなり、また一つクラブ初の出来事を生むことになる。
クラブ初の生え抜き選手がJ1へステップアップ
2011年12月27日、佐藤晃大のガンバ大阪移籍が発表された。(26歳のシーズン)
佐藤の活躍もありその年徳島は初めてJ1昇格争いを繰り広げたとはいえ1度もJ1に昇格したことのない徳島にとって、JリーグやACLを制したことのあるガンバ大阪はあまりにもビッグクラブで、J1とJ2の間には日本と欧州のような遠さを感じていた。
今でこそ多くの選手がJ1へステップアップするクラブとなっており、生え抜きでも鈴木徳真が移籍して行ったものの当時そういう選手はほとんどおらず羽地や青山くらいである。
ただでさえ少ない個人昇格のなか、徳島でプロになった選手がJ1のクラブに引き抜かれることはクラブ史上初であり、大きな驚きだった。
育成を掲げる現在のクラブにおいて、パイオニア的な存在であると言えるだろう。
余談だが、佐藤はパンチという愛称で親しまれているがこれはガンバ大阪へ移籍してからつけられたものである。
当時ガンバ大阪には家長昭博が所属しており、「アキ」という愛称で呼ばれていた。
徳島時代チームメイトから「アキ」と呼ばれていた佐藤だったが、既にアキと呼ばれている選手がいたためパンチという呼び名が付けられた。
由来は元プロ野球選手のパンチ佐藤(安直)
なのでガンバ大阪移籍前から佐藤のことを知っている徳島サポーターはあまりパンチと呼ばない人が多い。
自分的にも佐藤は「佐藤」である。
生え抜き選手として初のJ1二桁得点・Jリーグ制覇・Jリーグ杯優勝・天皇杯優勝・3冠達成
移籍して初年度、ガンバ大阪は結果的に降格してしまうものの佐藤はリーグ戦26試合で11ゴールという結果を残す。
徳島でプロになった選手がJ1で二桁ゴールを記録するのは史上初である。
ちなみに徳島ヴォルティスは2022年時点で2年間J1リーグを戦っているが、2014年は高崎の7点、2021年は垣田の8点がハイスコアなのでJ1で二桁を取ったことが一度もない。
降格したシーズンにそれだけ得点しているのだから純粋に凄い。
J2に戻ってきてしまった2013年は怪我が重なり5試合1得点という記録
偶然にも徳島戦で怪我から復帰し鳴門の地で途中出場した。
その次の試合の熊本戦でその年唯一のゴールを記録(現地で見てたので嬉しかった)
ガンバ大阪はJ2を優勝し1年でJ1復帰、佐藤も2年目のJ1リーグを戦うことになる。
徳島も一緒に昇格した2014年は23試合2得点を記録
個の能力の高い選手たちとのポジション争いでスタメン出場は多くなかったが、スーパーサブ的な立ち位置で重宝されていた。
徳島との2度の対戦はどちらもベンチ入りするも出番は無し。
この年ガンバ大阪はJ1昇格後1年でのJ1優勝を果たした。
第32節浦和との優勝争い直接対決で挙げた決勝点はガンバ大阪サポーターの間でも今なお語り継がれている。
Jリーグ杯、天皇杯も制し国内3冠を達成。
徳島ヴォルティスの生え抜き選手が国内タイトルを獲得したのは史上初なので、3つのタイトル全て史上初、もちろん3冠も史上初である。
3冠達成翌年に徳島ヴォルティス復帰
2015年1月5日、佐藤晃大の徳島ヴォルティス完全移籍が発表された。(29歳のシーズン)
G大阪でレギュラーポジションを失ったとはいえ3連覇に貢献したことは間違いなく、本人のコメント的にもまだJ1で勝負したいという気持ちもあったのではないだろうか。
とはいえ3冠を引っ提げて育ったクラブに帰ってくる決断をしてくれたことは徳島にとって大きなトピックスとなった。
サッカー選手としてプロフェッショナルな姿勢
G大阪時代にも大きな怪我があったが、復帰後も怪我が重なり本来のパフォーマンスでプレーできる時間はそう多くなかったのではないかと思う。
リリースされているだけでも2015年に2回、2017年に1回(手術)、2019年に1回負傷が発表されている。
慢性的な怪我で、復帰して調子を上げてきたころにまた怪我といった感じだったのではないだろうか。
通算成績を見てみよう
2016年をピークに出場時間やは減少している。
得点だけで言えば2017~2019の3年間なかったものの、アシストを含めれば全く数字を挙げられなかったのは2017年のみということになる。
どれだけ怪我を繰り返しても腐らず復活しまたピッチに立つプロフェッショナルな姿勢は、他の怪我をした選手や試合に出られてない若手選手に大きな影響を与えたのではないだろうか。
小林監督、長島監督、スペイン路線を敷いた後のリカルド監督、ポヤトス監督と、4人の監督のもと戦術やスタイルが変わっても使われ続けたことはそれだけ監督からの信頼を得ているということ。
FWとしては決して得点数が多いわけじゃない選手が使われ続けるのは、それだけ数字に残らないところでチームに多大な貢献をしていることの証明だろう。
柿谷曜一朗はインタビューでこう話している
「佐藤君の相手の2倍、3倍動いて守備を混乱させるプレーに何度も助けられています。」(会報誌VOL.20)
佐藤晃大以外の得点数=佐藤晃大がチームのために自らを犠牲にしてきた数字なのだ。
佐藤より上手い選手も点が取れる選手もたくさんいるかもしれない
それでもこれだけ佐藤がサポーターに愛されるのは、数字にも記録にも残らないプレーや行動が全てのサポーターの記憶の中に残っているからなのだ。
試合に出られない時のサッカーへ向き合う姿勢、後輩からいじられる姿やファンへの対応などからも分かる人柄の良さ、それらすべてがプロフェッショナルだった。
佐藤晃大を象徴する試合
佐藤を象徴する試合を2試合取り上げたい。
まず1試合目は2020年9月5日J2リーグ第17節ホーム群馬戦
後半開始から出場した佐藤はこの日2016年以来約4年ぶりの得点を決めた。
得点後の選手スタッフからの祝福、スタジアムの雰囲気
ヴォルティススタジアムで行われたMOM投票でも佐藤がMOMとなったが、普通なら試合終了間際のダメ押し弾よりもなかなかのスーパーゴールだった先制点を決めた河田篤秀がMOMとなるところだろう。
それだけ徳島ヴォルティスに関わる全ての人にとって特別なゴールだった。
それは上記したように、怪我や得点できず苦しい時期でも真摯にサッカーと向き合い努力してきたプロフェッショナルな姿勢をみんなが知っていたからである。
得点後の控えめなガッツポーズ、試合後のインタビューで最初にサポーターと家族に感謝を伝える言葉
その全てが佐藤晃大という人を表していた。
2試合目は2022年9月14日J2リーグ第36節ホーム岡山戦
昇格争いの直接対決となった岡山戦、佐藤は後半31分から出場する。
ハイライトにはボレーシュートを放つシーンしか映っていないが、この試合を選んだ理由はそこではない。
試合後の監督インタビューで佐藤の役割について聞かれたポヤトス監督はこう答えている
「今日は佐藤選手に尽きます。それほど素晴らしくて我々には欠かせない選手です。毎日の練習において、背中で仲間を引っ張ってくれるプロの鏡です。怪我によってコンディションの悪い時期もありましたが、重要な選手であることに変わりはありません。」
サッカーで試合の空気が変わる瞬間、スタジアムが沸き立つ瞬間とはどういう時だろう?
そのほとんどは得点が入った時、スーパープレーが出た時なのではないだろうか。
この試合において佐藤晃大はそのどちらでもなく試合の空気、スタジアムの雰囲気を一変させた。
佐藤晃大はただひたすらに走り、体を張り、ボールを追ったのだ。
それだけで全ての観衆の感情を大きく動かした。
チームの中心選手になっても、大きなクラブへ移籍しても、国内3冠を達成しても、ベテランと呼ばれる立場になっても、あの頃柿谷が語った、チームのために2倍3倍走る、佐藤はあの頃と変わらない佐藤だった。
ハイライトにも記録にも残らないプレーを、あの空気感を、その試合をリアルタイムで目撃しなかった人と共有することは困難なのかもしれない。
それでもあの日、あの試合を見た全ての人は永遠にあの日の佐藤晃大の姿を忘れないだろう。
戦術でも技術でもないフットボールの素晴らしさを、佐藤は最後に教えてくれたのだ。
あとがき
2008年11月、佐藤晃大の徳島ヴォルティス加入内定が発表された時のコメントがこちら
「今チームは厳しい状況ですが、その状況を脱し、J2優勝や、J1昇格を果たすため、少しでもチームに貢献出来るように精一杯頑張りたいと思います。徳島のみなさん応援をよろしくお願い致します。」
このコメントから12年後、佐藤は徳島ヴォルティスの選手としてJ2優勝そしてJ1昇格を成し遂げた。
当時このコメントを読んで、これが現実になることをどれだけの人が信じただろうか。
もしかしたら佐藤自身も想像していなかったかもしれない。
徳島でプロになり、何もなかった徳島の前に道を切り開き歴史を作ってきた。
通算在籍11年、公式戦通算219試合10,194分出場、28得点、84勝
徳島で共に戦ったチームメイト171人、監督5人
決して派手な選手ではないし、貢献度が記録に残りづらい選手だったのかもしれない。
それでも佐藤晃大の偉大さは全ての徳島ヴォルティスサポーターの胸に深く刻まれ、永遠に残り続ける。
佐藤がいたからJ2を優勝できた。
佐藤がいたからJ1に昇格できた。
佐藤がいたから今がある。
佐藤晃大が徳島ヴォルティスの歴史でした。
そしてこれからも。
プロになる時、徳島に戻って来る時、引退してフロントに入る時、3度も徳島を選んでくれてありがとう。
徳島でプロサッカー選手になってくれて、徳島で引退してくれて、徳島で仕事に就いてくれて、僕は本当に幸せです。
ー追記ー
2023シーズン開幕戦で引退セレモニーが行われた
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