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やっぱり”チリンの鈴”だった

 第33話「修善寺」が放映する前の話だが、こんな予想が出回っていた。頼家(金子大地)の退場は「修善寺」ではなく、次回に持ち越すのではないかという謎の予言である。
 なぜこのような予言が出てきたかというと『草燃える』と同じ副題を出したからだろう。と言っても『鎌倉殿の13人』は「修善寺」で、『草燃える』は「修禅寺」と字が違う。前者は町名で後者は寺名だ。『草燃える』でも副題が「修禅寺」と付けられた第40話で退場するものだとその当時の視聴者の多くは思っていたのだが、それが見事に裏切られた。頼家の退場は第41話『華燭』に持ってきたところがキモなのだ。つまり頼家の暗殺は、実朝の”華燭”という華々しい縁談と同時に進行されたのだ。但し頼家の暗殺は回想だ。そうでないと時系列的に矛盾が出てしまうので。
 なので同じように回想になるとまでは思わないが、別の形で次回に持ち越すのだろうと筆者も思っていた。
 実は”修善寺”という場所で、頼家の暗殺と違う凄まじい惨劇が行われるのではないかと奇妙な願望が生まれていた。そして”修善寺”は善児(梶原善)のことだろうと皆が思うのは当然で、しかも前話で善児にフラグが立ってしまった以上、その期待は膨張していた。みんな惨劇が好きなのである。
 だが、第33話『修善寺』は30分経っても準備段階は進むものの実行される気配はなく、ああ、頼家は次回に持ち越しで、善児も命拾いしたなと思った矢先、残りの6分で惨劇が起きた。
 しかも頼家と善児の相討ちだけでなくトウ(山本千尋)の敵討ちまで持って来るとは思ってもいなかった。

「ずっとこの時を待っていた」と。

 思わず本稿の題名にもつけてしまったようにトウと善児の関係の元ネタは、『チリンの鈴』というアニメ作品(原作はやなせたかし)で、母を殺した狼に弟子入りする復讐を誓う子羊の物語だ(と少なくない視聴者は思っている)。子羊チリンは修行の末、怪物と化し最後には狼を殺し羊の群れに戻ることも出来ずにさまようという『あらしのよる』よりはるかにダークな作品である。単純にいえばチリンがトウで狼が善児ということになるが、その狼は結構儲け役で、「いつかこうなると思っていた」とチリンに残して息絶えるのだが、善児も狼と似たようなことになった。この2人はいずれ『チリンの鈴』になるのかもしれないと、以前にも少し触れたことがある。
 善児が範頼(迫田孝也)とトウの両親を殺し、それを幼いトウが目撃した24話「変わらぬ人」へのコメントをしたときだ。
 筆者だけではないのだが、善児は『草燃える』の伊東十郎佑之(滝田栄)そのものに違いないと確信していたが、十郎はトウなのではないかと薄々感じるようになった。安易だが名前がトウだからということもある。それに善児のモデルは他にもいるかもしれないのだ。
 実は十郎も自分の師匠のような人物を殺している師匠と言っても盗賊稼業で世話になった首領(黒沢年男)であるのだが、京で盗賊団に捕らえられた小四郎(松平健)を逃すために首領を手にかけてしまったのだ。
 「ひどいぜ、十郎」、もちろん望んでいたわけではないが、どこかしら自分の最期のことも揶揄する余裕があった。『チリンの鈴』の狼ほど格好いいわけではないが、どこか憎めない首領で、首領が十郎を手塩にかけて育てそして弟子の十郎に殺されたことには違いない。善児もそうだった。そしてトウやチリンにとって、善児や狼は敵には違いないが、師匠なのだ。しかし今後トウはチリンや十郎のように孤独な生き物になってしまうのか、それとも「鬱憤と恩愛の迫間で生きる」孤児の物語になるのか、使い走りなどで終わらずに鎌倉に対峙できるような存在になってもらえるのではないかとそと密かに期待している。
 善児が生きていれば、最終回には琵琶法師として小四郎の前に姿を現すことを期待していたのだが、それはもう望めない。善児は伊東祐親(浅野和之)に仕えていたこともあり、ある程度平家との接点はあったが、トウはその接点がないので琵琶法師になることは考えにくい。
 十郎が師匠を殺した話は『草燃える』の第23話「都の盗賊たち」だ。6年くらい前の個人ブログに偶然とはいえそのときも『チリンの鈴』のことを触れてしまったことは今でも思い出す。

 頼家の最期の生き様については『草燃える』とそう変わらない。 決して愚かな謀反を起こそうというのではない。

 泰時(坂口健太郎)に「お逃げください」
と言われても

「逃げはせぬ」
「道などない。いずれわしは殺される」
「最後の最後まで楯突いてやる」
鎌倉殿の地位を剥奪された自分の力はもうないことは分かっている。ただ生き急いでいるだけだ。

「鎌倉を燃やしてやる!」はほとんど同じで永井路子の原作でも「鎌倉中に俺は火をつけてやる」とやはり最期まで吠えるのだ。

 『草燃える』では前述したように頼家(郷ひろみ)の暗殺は回想で始まる。語り手は平六(藤岡弘、)の弟である三浦平九郎胤義(柴俊夫)だ。
 「ここから逃げたいとそれだけを願っておられたのです。」と。

 頼家の逃亡先の候補地、それは義経もいた京の鞍馬山だったのだ。

 「三浦殿の力を、三浦殿のわざわいを断ち切ってもらいたい。」と
平六に願うのは時政(金田龍之介)で、
 「修善寺に何か起こればあの若君も危うくなる。わぬしと争いたくない。末永く手をつないでいきたい。」と満面の笑みを浮かべる小四郎、つまり『草燃える』頼家の暗殺を三浦に仄めかしたのは北条である。三浦の弟平九郎が修善寺にかよっていることと、三浦が善哉の乳母夫になっていることを暗に脅している。三浦と争わないためには、三浦が頼家を討てと言っているのだ。

 『鎌倉殿の13人』では頼家を討ち取ることを決めたのは小四郎(小栗旬)である。当初は周りからそれを催促されても頼家を殺すことを保留していたが、頼家が後鳥羽(尾上松也)に北条追悼の院宣を願い出るつもりだったことが判明すれば、即座に決断する。
「頼家様を討ち取る」と。
 現段階では、頼家を討ち取ろうと決然し、善児に依頼する小四郎よりも、三浦に頼家を討てと暗に脅し、しかもこちらは勧誘するだけで決定権はそちらだと父と一緒に仄めかす小四郎の方がはるかに悪人としては格が上だと思う。
 それに、五郎(瀬戸康史)と一緒に善児の住処を訪ねたら、巾着袋の中身が兄三郎(片岡愛之助)の形見だったことを発見、つまりとうとう善児が敵だということが判明してしまったが、小四郎は善児を斬ろうと息巻く五郎をとどめる。
 「私に善児が責められようか。」と逡巡する小四郎に良心が残っているようにも思えるし、まだ善児に利用価値があると見通していようにも思える。
 さらに頼家をどうにかして助けようとする泰時を
 「太郎はかつての私なんだ」と五郎に打ち明け、しかも善児には泰時が邪魔しにきても、殺すなと哀願(?)までするのだ。

 頼家の生き急ぎに関しては両作品とも大差はないのだが、郷ひろみ版の頼家は、ここから逃げたいというのみの望みしかなかったが、金子大地版の頼家は、徹底して鎌倉に逆らう、前者は静、後者は動、それが修善寺での惨劇の違いにもつながると言えよう。郷版は抵抗はしない。

「平九郎、いるのか。いたら返事をしろ。殿はそなたを呼んでいるのだ。殿の最後のご奉公をするんだ。殿はそなたに解釈してもらいたいと、どうせ死ぬならそなたの手にかかって果てたいと申されているのだ。」

弟を呼ぶのは取りあえず北条に付くと決めた平六である。頼家も
「この命、惜しくはない。俺の首をあの蛇のような北条の奴らにくれてやる。頼むぞ、胤義。」
 だが平九郎は頼家の首を斬ることが出来なかった。だが
痺れを切らした北条からよこした検分役が頼家を討ち取ってしまった。思わず平九郎は検分役を惨殺してしまう。

 金子版の頼家は郷版とは対照的に、自ら刀を取って応戦するのでこの惨劇は本格的なアクションを要することになる。何しろ今後中心になるトウ役はプロのアクション女優が演じるのだから本気度も違う。また『愚管抄』では武術の達人とまでもてはやされた頼家の武勇をはじめて披露することになる。まあそれが自らが死ぬときで最後でもあるので皮肉といえば皮肉だ。何せ頼家はあの善児との一騎打ちで互角の戦いを演じるのだから。思えば富士の巻狩の時は、鹿を取った泰時の方が弓の腕前ははるかに上で頼家は屈辱を感じたのかよほど努力を重ねたのだろう。頼家を助けようとした泰時は惨劇が始まった直後に鶴丸(きづき)と一緒にトウに一掃され気絶したので惨劇の内容を知ることがない。気づいたときには頼家の遺体が横にあった次第なのだ。
 頼家を仕留めたのはトウである。本当は善児が頼家にトドメをさせる機会があったのだが、”一幡”の字が目に入り隙が出てしまい、逆に自分が刺されてしまった。いよいよというときに頼家はトウにトドメを刺され、善児もトドメを刺された。
 前話の「わしを好いてくれている」は唐突だったが、優しい子であった一幡の回想が流れ、善児の最期で伏線は回収される。


 「父の敵!」、「母の…敵…」トウはこのまま何もなかったように引き続き北条の刺客として生きていくのだろうか。

 第33話の副題は「修善寺」ではあるものの最後6分の惨劇以外の本題は、実朝(嶺岸煌桜)の縁談話である。実朝の縁談で『鎌倉殿の13人』と『草燃える』の最大の相違点は、役者が本役か子役かの違いである。前者の実朝役は子役だが、後者の実朝役は篠田三郎で、当時30歳を超えていたが、それでもかなり声も若くしたり工夫をしていたことが見て取れる。『草燃える』の実朝の縁談は『吾妻鏡』を踏襲して、実朝自らが都の姫君を御台所に迎えたいと望んだことを採用した。理由は「兄のことを考えると坂東の豪族からは嫁をもらいたくない」からだ。無論都への憧れもある。『吾妻鏡』にも実朝が望んでいたことは記されているが、『鎌倉殿の13人』はそれを覆したようだ。
『吾妻鏡』によれば、「正室は当初足利義兼の娘が考えられていたが、実朝は許容せず使者を京に発し妻を求めた。しかし実朝はまだ幼く(満12歳)、この決定は実際は時政と政子の妥協の産物とする説もある」ということだ。ただあの実朝を現代人の一般論で12歳だから幼いと言えるのだろうか?それこそ個人差というものがあり、筆者はどうしても実朝の早熟さに目がいってしまうので、そこはどう言われても上書き出来ないのだ。『鎌倉殿の13人』は縁談に実朝の意思が反映されたことは採用されなかったが、それでも実朝の早熟さは写し出している。「軒の雨だれを一晩中眺めていた」ことに触れていたし、しかも政子(小池栄子)がそれを肯定し和歌をやらせてあげたいとまで望む。それに源仲章(生田斗真)と実衣(宮澤エマ)に追い立てられるように出される三善康信(小林隆)に思わず心を痛めてしまう特徴も決して逃していないのだ。

補足

 「全ては鎌倉のため」
 「北条のためではないですか」
 「同じことだ。北条なくして鎌倉は成り立たぬ」

以上が小四郎が泰時に言ったことだが、父時政(坂東彌十郎)に言ったことと逆のことを言っているのだ。「北条あっての鎌倉でなく鎌倉あっての北条です」と。これが小四郎の変貌と言われがちになるとは思うが、父の前では、また以前と同じことを言い出すだろう。姉の前でも同意見だったことを復唱し、決して「北条あっての」などとは言わないだろう。無自覚にバランスを取ろうとしているとも思える。逆に言えば時政は誰にでも自分の意見を言うだろう。良くも悪くも一貫性があるので。

 「兄上にとって私は何なのでしょう」
 「考えたこともなかった」
そりゃ息子と弟とは違うよねと今さらながら思う。まさか使い勝手のいい弟だとは言えないし。
「ならば私は兄上にとって太郎とは真逆でありたい。太郎が異を唱えることは全部私が引き受けます」
 後の初代の連署だが、『草燃える』の五郎(森田順平)もかなり汚れ仕事を請け負っていたが、上記の発言も本当はあったということなのだろうか?


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