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自分の味方は自分です

 古市憲寿の『正義の味方が苦手です』(新潮新書)を「芸風の失速」というタイトルでAmazonにレビューを書きました。以下が本文になります。書き出しで太字にしたのはnoteで加筆した部分です。

芸風の失速

 「一体どっちの味方なんだ!」と幾度も言われたのだろう。
古市憲寿のような「誰の味方でもない」、というより「自分が自分の味方」である人間が論じると決まってこういうことになる。
 論壇という言論の世界の辛いところは左右どちらかの陣営に頼らざるを得ないところだ。内容が勧善懲悪だと読み手側も考える体力が温存できてある意味楽とも言えるし、書き手も自由に書けなくなる一方で、多数の共著というおいしい互助会に加入できるからである。だからあまり独自の視点を持ってしまうと、ヘタをすれば論壇での居場所を失う羽目にもなるのだろう。その点古市はピンでやる力があるので必要以上に互助会に頼ることなく左右を上手に泳ぎ切っているのだろう。今のところは。

 本書は「週刊新潮」で掲載されている古市の連載コラム『誰の味方でもありません』をまとめたものの続編であることは言うまでもないが、いまも連載は続いており、本タイトル『正義の味方が苦手です』に変更したわけでもない。また、そこまでのチェックはしていないものの、未収録もある可能性もなきにしもあらずだ。

 古市が「はじめに」で取り上げた『陰謀論』(泰正樹)のように「なまじっか知識のある人の方が陰謀論を信じやすい」という説は枚挙にいとまがない。古市自身、自著すらも、よくある陰謀論の入門書でもあることは認めているし、「みんな政治でバカになる」(綿野恵太)や「賢い人ほど騙される」(ロブ・ブラザートン)の確証バイアス論と似たようなものである。だから”本書もまた「歪んだ」本”で、読者もどこかで「歪んでいる」などど、逃げ口上で布石を打ってくる素早さといい、芸風だけは相変わらずだ。

 これも今更ではあるが、いわゆる中立芸の披露こそが我が芸風と開き直ることが著者の特徴である。筆者も両論併記のような中立芸自体は決して悪いとは思わない。自分の立ち位置でしか発言出来ないポジショントークよりははるかに独創性や多面性があるからだ。
 だが、中立を装っていることがバレてしまうと目もあてられないほどの大惨事になることもあり、ポジショントーク以下に成り下がってしまうのでその点は要注意だ。

 本書にはその類例がある。
 第四章では文字通り「人が立場から自由にはなれない」(「週刊新潮」2022・4・28)の記述にあるように
 「感染拡大当初から、コロナとの共存を訴えてきた知識人には大学に所属していない人が多かった。東浩紀さん、三浦瑠麗さん、與那覇潤さんといった具合だ」とウイズコロナ派に思い入れがあることが見て取れる。確かにゼロコロナ派が、国から緊急事態宣言を出させ、私権制限を求めることにも危うさは感じるし、「経済か、命か」という二元論にも頷けない。そもそも“経済”の中には“命”も入っているからだ。だからといってウイズコロナ派が経済を回すと同時にPCR検査抑制論を強行に唱えることにも首を傾げざるを得ない。それに自分を含むウイズコロナ派はあたかも大学の禄を食む身ではないと珍しく鼻息は荒いが、自身は新型コロナウイルス感染症対応に関する有識者会議メンバーだったことはどうなのだろう。

 「人が立場から自由にはなれない」という同じ見出しの中にはもう一つ類例がある。
 「コロナ予算は2020年度だけで77兆円に達した。『いくらでもお金を刷ればいい』『国債は返さなくてもいい』と言う人がいるが、それならなぜ世界中の国家がそうしないのか」
 この記述にもごまかしがある。知らないわけがないのに、自国通貨がある国とない国との差があることは姑息にも記していないのだ。筆者もMMT(現代貨幣理論)を信用しているわけではないが、そこは無視できない差であるはずだ。古市は「経済を回せ」派でかつ緊縮派ということなのだろうが、結構ボロを出しているところも面白い。このごまかしもどこかご愛嬌すら感じてしまう。まさか「歪んだ」自分に騙されないようにあえてバレるように書いたわけではないと思うが…

 ということでせっかくの中立芸は本書では失速してしまったが、比喩のセンスは相変わらず群を抜いている。
特に第一章「流行ることはバカにされること」(「週刊新潮」2021・2・11)での記述に「世の中にはメジャーとマイナーという二つの島が存在する」というたとえには思わず膝を打った。
あの古市でも金と名誉はやはり欲しいのは当然のことなのか二つの島を上手に行き来してもらいたいものだ。

追記
 「正義」と「悪」が容易に反転されるのはわかりきった話であるが、具体論に手を付けるとやけどすることにもなるので足元を固めてから実施する方がいいだろう。
 第四章の「『素人』は沈黙せざるを得ないのか」で江川紹子が「ニュース番組なのに、ウクライナ情勢を全くの素人(クリエイティブディレクター?)にコメントさせるなんてどうかしてる」とツイッターに投稿した内容に古市が噛み付いた件(「週刊新潮」2022・3・17)は興味深かった。そしてその話は終息せず、江川が古市への反論を展開した。ニュースサイトBusiness Journalの江川の連載「事件ウオッチ」(2022・3・24)からである。
 その番組は日テレの「News Zero」で、報道番組に専門家を呼ばないことに異を唱えたことであってディレクターのコメント自体を遮るつもりはない、古市のコメントは的はずれで、昨今の専門知を軽視する風潮に乗っかった危うい内容だという趣旨を主張していた。
 古市は江川の反論については特に対応もせず本書でも取り上げなかった。確かに江川の反論は苦しい面もあり古市が決して的はずれというわけでもない。B5版の週刊新潮での1ページでは限界もあるのだろうが、江川を批判するならするで、もう少し何とかならなかったのか?実際に江川がディレクターの意見を遮るつもりはなかったのだろうが、クリエイティブディレクターに”?”を付けたり、「どうかしてる」という言い方が悪い。古市も揶揄うだけで討論する覚悟のなさが透けて見えるのだが、そこも古市の特徴だと言われればそれまでの話か?
 「はじめに」で死刑反対論者である森達也に矛盾があることを取り上げられたが、今のところ反応が聞こえてこない。森からの反論が聞きたい。


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