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クロアチアと日本の交流活動をゆるく

今、クロアチアで暮らしていて、クロアチアの子ども達に日本のこと、山形の母校の子ども達にクロアチアのことを紹介する活動のようなものを細々と続けている。

具体的にはクロアチアの小学生と一緒に折り紙を折ったり、母校の小学生とビデオ電話で繋いでクロアチア人の友達と一緒にクロアチアの話をしたり、今は母校の小学生から届いたビデオレターをクロアチアの小学生に届ける準備をしている。

過去からの想いが線になって繋がってる感覚にふとなったのでちょっと文字にしてみようと思う。

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大学4年生の秋、わたしは山形県で一番小さな町・地元の町役場の採用試験を受けていた。一次試験の筆記試験の後、二次試験は作文と面接。

圧迫面接に動揺したり、答えを考えるのに時間がかかったり、面接に苦手意識があって、だからこの町役場の面接はよく覚えている。

最初の面接官が空気を和らげるように「よく眠れましたか」「朝ごはんは何を食べましたか」って訊いてくれて、その後に数人の面接官から質問があって、最後の面接官がわたしの面接シートを見てこう切り出した。

「ここに海外姉妹都市提携をして国際交流の仕事がしたい、と書いてあるけど、うちの町ではこういった課がなくて」

併願先の隣の市役所ならこういう仕事できるよって言われるのかなって咄嗟に思った。わたしの町役場には国際交流課みたいな担当課がないのはわかっていた。

わたしの地元の町はどこの海外都市とも姉妹都市提携を結んでいない。こういう時間をかけて培われていく活動よりもっと切迫した仕事があるのはわかる。でも当時のわたしは隣の市で暮らす子ども達が海外の姉妹都市に派遣されて異国の人と交流する機会があって、わたしの町の子ども達はその機会がないことが、純粋に不思議で、わたしが町役場の中に入ったら何か変わると信じていた。

面接官は少し間を空けて続けた。「この先、担当課がつくられたら、そのときはやってくれますか」

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その後念願の合格通知を手にして、晴れて町職員になり、税務課でちょうど2年働いて辞めてクロアチアに引越した。

気付いたことは、中で動くより外から働きかけた方が圧倒的に早いということ。

クロアチアに引越してからの5年で、知り合いができて友達ができて、まわりの人達のおかげで眠っていた夢みたいなものが叶ってる。

(話が逸れるけど、クロアチアでは願えば叶うって強く信じられるようになった。まわりには自分で道を開いて進む力があって、とてつもないエネルギーを持っている人達がいて、そんな環境でわたしもたまにエイッと冒険してみたりする。)

いつか地域の人達を招いて餃子を包んで食べる餃子会をやりたいし、秋の晴れた日に芋煮会を開催したいし、浴衣を着て花笠を踊りたい。

クロアチアの子ども達に山形の雪を見せたいし、山形の子ども達にクロアチアの海を見せたい。

細く、長く、この交流活動を続けられたらいいと思う。幸せは途切れながらも続くのです、ってスピッツも唄ってるもんね。

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