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「生きてりゃ何とかなる」なんて嘘っぱちだと思っていたわたしの話。Part.1

如何せんただいま暇なもので(笑)
徒然なるままにわたしの生い立ちでも
書いてみようかと。
長くなりそうなのでいくつかに分けるかも。

わたしの両親は結婚してから6年経って
わたしを身籠った。長い不妊治療の末やっと。
わたしがお腹の中に宿ったことを知った両親は
さぞかし喜んだんだろうし、笑ったんだろうし
その時のふたりはきっと
とてつもない幸せに満ち溢れていたんだろうと
何となくだけど思ったりする。

そして両親の結婚記念日の次の日
待望の第一子であるわたしがこの世に産まれた。
母方からは待望の初孫、父方からは待望の初の内孫ということもあり、わたしが産まれたときは親戚中が大騒ぎだったという話は昔から嫌と言う程聞かされたものだ。
そんなこんなでわたしは運悪く両親や祖父母達の大きな期待を背負った状態で産まれてきてしまったのだった。

わたしの両親は当時では珍しい共働き夫婦だった。
そのため高校に上がるまでは1日の殆どの時間を
近所に住む祖父母と過ごしていた。

朝起きたら祖父母の家へ行き朝御飯を食べ
祖母に保育園へ連れて行ってもらう。
そして保育園へ迎えに来た祖母と一緒に帰り
祖母の作った夕御飯を祖父母と食べる。
そして迎えに来た母と帰宅しお風呂に入って眠る。

それがわたしの当たり前の生活だった。

こんな生活を長らくしていたこともあり
わたしは今でも自分にとっての父と母は父方の祖父母だと思っている。
そんな祖父母とのエピソードは数えきれぬ程あるので、ここでは割愛させてもらう。

自己紹介の方でも少し触れたが、幼い頃のわたしは
とにかく人見知りで泣き虫で友達も殆どおらず
人前に立って注目を浴びたり目立つことも大嫌いな
典型的な暗い子供だった。
ひとりで何かをすることも全く出来ず
常に祖父母と一緒でないと行動ができなかった。
そんなわたしのことを、祖父母も両親も
皆心配していたのを薄ぼんやりとだが覚えている。

小学校に上がってもその性格は変わらず
クラスにはひとりも友達がおらず
友達のつくりかたもわからなかったため
休み時間は常に図書室で本を読んでいた。
元々読書家の父の影響で本を読むことは多かったが
きっとこの頃からだろう。
読書の面白さにどっぷりと浸かっていったのは。

しかしこの頃の自分は孤独を感じてはいなかった。
それは当時通っていた学童保育に友達が居たから。
教室では独りぼっちで誰とも話せなくても
学童に行けば学年問わず友達がいた。
だからわたしは学校に行けていたんだと思う。

そして小学3年生で学童を卒業した後
学童の友達と共にわたしは管弦楽部へ入部した。
担当パートは2ndヴァイオリン。
当時、本当はバスケ部に入りたかったわたしだが
周りの友達と離れるのが怖くて
渋々入部したことを今でもたまに思い出す。

結果としては勿論良いことばかりではなかったが
部活に入ったことで友達も増え
元々好きだった音楽が更に好きになり
普通の小学生であれば経験できないことも
たくさん経験することが出来たため
管弦楽部へ入ってよかったと思えているのだが。

ちなみにこの管弦楽部。
あまりメジャーな部活ではないのだが
簡単に言えばオーケストラを行う部活だ。
わたしの地元は音楽の街として有名であったため
地元の小・中学校には殆ど管弦楽部があったのだ。
特にわたしの小学校は毎年全国1位を取っている
所謂「強豪校」だった。きっと今も。

だからこそ、指導はとにかく厳しかった。
小学生の部活とは到底思えないような
まるでパワハラのような厳しい指導に対しては
よく父兄からクレームが寄せられていた程だった。

毎日飛び交う顧問の暴言と、投げられた指揮棒達。
少しのミスも許されない緊張感に包まれた部室。
テストで失敗すれば、すぐに序列は下がっていく。
そんな中でわたしは毎日毎日胃痛と闘いながら
周囲から置いていかれるものかと必死になりながら
ヴァイオリンと、そして音楽と向き合っていた。

わたしはクラシック音楽が好きだし
ヴァイオリンを弾くことも大好きだった。
ただ、周囲と比べると圧倒的にレベルが低かった。

「貴方はヴァイオリンには向いていない」
「そんなに下手ならもう辞めてしまえ」

そんな言葉をぶつけられたことも
当時は数えきれぬ程あった。だから必死だった。
いくら下手でも、向いていなくても
音楽が、ヴァイオリンが好きだったから。
そして、何よりも、そんな言葉達に
絶対に負けたくなかったから。

わたしは小さい頃から比較的
学校の成績は悪くなく、寧ろ良い方だった。
元々勉強は嫌いではなかったこともあり
テスト等で困ったことも無かったし
運動も得意とまではいかないがそこそこは出来た。
だからこそきっとこの部活での出来事は
当時のわたしにとっての
初めての「挫折」だったのだろう。

両親も祖父母も親戚も皆
わたしの学校での成績や、管弦楽部に入部し
頑張っていることを誇りに思っていたし
その周囲の期待に応えられている
「自分」という存在がわたしはとても好きだった。
今思うと「期待に応えられなくなったら終わり」
というある種の見捨てられ不安、恐怖心に
駆られていたのだと思う。

だから必死だったし、負けたくなかった。
負けてしまったらわたしは「終わり」だから。

ちなみにそういった不安や恐怖心は
この後10年以上に渡りわたしの人生の中で
わたしを苦しめていくのだが
それについてはまた後日書くことにしよう。

小3でのキャラ変、そして
いじられキャラが度を越えてしまったがために
起きたいじめなどなど
他にも小学校時代のネタはあるのだが
その辺りまで書いていくと収拾がつかないため
そういった部分は今回は省略させていただく。

ちなみに小学校6年生の最後のコンクールで
わたしたちの学校は全国1位を獲ることが出来
有名なコンサートホールで演奏させていただいた。
あのとき舞台上から見た光景、音の響き。
そして演奏後の心の震えは未だに強く覚えている。
きっと一生忘れることはできないだろう。

様々な思い出がある小学校時代だが
今こう思い返すと楽しかった思い出に溢れているな
なんて他人事のように思ってしまう。
卒業式では級友や先生達と号泣し
黄色い帽子にたくさんのメッセージをもらう。
当時のわたしは紛れもなく「普通の小学生」であり
「普通の幸せ」を手に入れていた。
そしてこれから先も自分には「普通の人生」が
待っているものだと勝手に思っていた。

まあそんなに人生というものは甘くない。
そして「普通」という名のレールから外れることが
どれだけ容易いことなのかを
わたしはこれから嫌と言う程知らされるのだが。

一先ず今回はここまで。
お次はわたしの人生の暗黒期である中学編。



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