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華フック新作「母を家畜にするレシピ」について〜生と死の間で〜

 華フック先生がpixivをどんどん更新している。作者は最近新作の資料やネームを公開することに躊躇がなく嬉しい反面、そんなサービスして大丈夫か心配になる。
投稿では調教中の描写が公開されており激しいイラマや鞭や蝋燭を使った暴力、浣腸などが施されている。しかし今回彼女たちを「豚」に生まれ変わらせる「レシピ」に果たして本当にムチや蝋燭といった道具が必要なのか、いやそもそも性行為自体必要なのか、考えてみたい。

https://www.pixiv.net/artworks/120622069

 さて次回作となる予定の「母を家畜にするレシピ」だが今回の投稿のタイトルは「母子失格」。
こちらのタイトルの方が近親相姦を匂わせるインモラルなものとなってるが、変えるつもりなのだろうか。

 さて表紙の文子はイメチェンしてパーマをかけており、作者もコメ欄でいうように、より野暮ったいお母さん臭くなったかんじだ。
しかし野暮ったさを出したいのならば、もはやセンター分けもやめて全部パーマを当ててしまってはどうだろうか。つまり目指すべきはちびまる子ちゃんのお母さん、だ。

 生活に追われ、おしゃれをする暇もなく、かといって「母」というペルソナは被り続けなければならない。そういった「女」共が行き着く果ては、手入れはめんどくさいからショートカットにするが辛うじての洒落っ気として安い白髪染めとパーマを当てるステレオタイプのおばさん、おかあちゃん像、つまり「ちびまる子ちゃんのお母さん」だ。
この女とは遠く離れたおしゃれも性も忘れてしまった「ちびまる子ちゃんのお母さん」こそ過激に過剰に、死を意識するほど暴力的に犯すべきだ。それは死「タナトス」というものがあるからこそ生と性「エロス」が輝くということがある。

 人間には生への欲動「エロス」があるのと同時に死への欲動「タナトス」がある。人は自殺願望を持っていたり、自傷癖があったりする。それは限られた人だけだと思うかもしれないが世界各地の民族には通過儀礼という子供が大人になる為の儀式がある。例えばユダヤ教徒は男子が生まれて8日後、陰茎の一部を切除するいわゆる割礼が行われる。バヌアツでは成人になる際に5週間ほどかけて数十メートルにもなるやぐらを木で組み立て、足にツタをくくりつけて飛び降りる、ナゴールという通過儀礼が知られる。これはバンジージャンプの元となる儀式だが、ナゴールがアスレチックとして定着してる時点でタナトスの普遍性が伺える。通過儀礼全般にいえるのは身体への傷害であったり、死ぬ危険があったり、いずれにしよ死を意識させる身体的暴力と精神的な暴力が介在する。それにより通過儀礼を経た時、つまり死から生還した時、人は生まれ変わったような新しい人(大人)になるのだ。逆に言うとここでは死ぬ可能性すらある。通過儀礼を乗り越えられなかったものは生まれ変われないもの、大人になれなかったものなのだ。
もう少し卑近な例を出すと、例えば何かやらかしてしまった時自分を消したい、殺したい、消えて生まれ変わりたい、と願うことはないだろうか。そう、そういった願望こそタナトスなのだ。またこの願望は他者に向けられることもある。どこまでも自由に全てを破壊し尽くし暴虐の限りを尽くすものに憧れを抱くことは少しもないだろうか。いくら被害が出てもゴジラを破壊神として崇めるのはそういったタナトスを満たしてくれる者への畏敬の念があるからだ。女がDV男と別れられないのも本質的にはその暴力を求めているからだ。そして死を意識したとき人は最も生を意識する。例えば映画「おくりびと」では主演の本木が初めての納棺をした後、妻である広末涼子を激しく求めるがそれは死を意識した後エロスを求める一列だ。また「トランスポーター」で危険を潜り抜けミッションを成功させた後ジェイソンステイサムがヒロインを激しく犯すのはわかりやすい例だ。
このように人はエロスを求めるが故タナトスを享受する。逆にいうとタナトスがあるからこそエロスが存在する。

 JDのカスミや里美に暴力行為をしたとしても若い為タナトスを経ず直接エロスを享受してしまうきらいがある。つまり簡単に豚になる。そうではなくやはり比較的老いた新庄、そして第一に「母」文子を苛烈な暴力に晒すことで死を意識させ、ギリギリのところで生還させるべきだ。
それは「ゼログラビティ」のような死の空間「宇宙」から生の空間「地球」への生還だ。この通過儀礼を文子にも体験させ「ちびまる子ちゃんの母(子供)」を「豚(大人)」に生まれ変わらせるべきだ。また本作が数多くある通過儀礼の物語と一線を隠す為にこの地獄のような「ゼログラビティ」を文子には何度も何度も反復して体験させようではないか。
サンドラブロックが地球に降り立ったときの地面からのアオリのショットに感動し力強さを覚えるのは、無論宇宙という生命のいない生命誕生以前から存在する「根源的な死」への恐怖があるからだ。つまり何よりも生(エロス)を渇望するにはエロスとは裏腹の、殴る、蹴る、噛みつき、頭殴り、乳殴り、乳ふみ、首絞め、チョークスリーパー、乳を挟んだチョークスリーパー、などと言ったよりプリミティブで性的興奮(エロス)を挟まない暴力、つまり宇宙空間の如く根源的な死としての「タナトス」を享受させる必要がある。
後述するがこのタナトスは暴力に興奮するような変態になる、と言うことでは断じてないことを気をつけてほしい。

 さてpixivで見る限り一度文子は豚になるがそこからシゲルの第一夫人「妻」として振る舞い出す。つまりエロスの領域だ。ここからどのようにしてもう一度「豚」つまりタナトスに旋回するかが気になっている。



案としては

・年相応の便秘のせいでまだ若い他の豚に糞便量で勝てず地位が下がる

・子供を産んだが母乳が出ないことで新庄に乳母をやってもらい最下層の地位になる

・1人だけ年齢もあり子供ができず地位が落ちる

だろうか
「妻」たちはシゲルの元で争いあいなにかしらの要因で負け、「豚」になる。 この方程式はカスミや里美といった他の豚にも適応し、ほんの数時間前まで新庄が里美をタコ殴りにしていたのに気づいたら逆転をしている、という具合に目まぐるしく地位は変わっていい。豚になった際はホームレスの便所とかにするのではなく、圧倒的な暴力、それも鞭で打ったり縄で縛りつけたりといった道具を使わず殴る蹴るといった純粋な暴力に晒すべきだと考える。なぜならここでの暴力はプレイでなくタナトスを感じさせるため行うからだ。

 タナトスを描くには彼女たちが暴力を振るわれる時に殊更快楽を描写すべきではない。そうではなくその暴力性そのものを描くべきだ。先に見たようにタナトスとは自傷癖や自殺といった形で私たちに普遍的に見られる感情であり、よくAVにありがちなイラマで興奮する変態だとかドMといった特殊な性癖とは全く違う、むしろ真逆の感情だ。エロ漫画では調教を通じて変態に変えてしまう、と言うのが典型的だが、そうではなく女に普遍的に当てはまるタナトスという欲動を呼び覚ます、ことが本来の目的だろう。
そして通過儀礼としての暴力はムチや蝋燭などの道具をつかった「プレイ」としての暴力ではなくナヴールや割礼のようなプリミティブで「純粋」な暴力であるべきだ。その2つは似て非なるものであり混同しては決していけない。なぜなら前者は遊戯としての暴力に過ぎないのに対し、後者の目的が死を意識すること、時には死ぬことだからだ。そのような死を意識するような身体的暴力と精神的暴力を経た「母」は生まれ変わり「豚」となる。バヌアツの少年たちがナヴールを経て大人になるように。そして過激な暴力の果てについには文子が「エロス」求めてるのか「タナトス」を求めてるのかわからなくなるほど追い詰め、気づけば自分を消して生まれ変わりたい、殺してしまいたいというタナトス自体を渇望するようになる。それは同時にシゲルをゴジラの如きタナトスをもたらすもの、破壊者として崇拝することにもなる。

 ただしあくまでよりタナトスを享受すべきなのは「文子」だ。であるから現在pixivで公開してる展開のような第一夫人としてエロスを享受する文子はより気品高く、高慢に描くべきだ。その方がより強くボコボコにしてタナトスを意識しやすくできる。
暴力の仕方に関してはまた詳しく書きたいが、繰り返しになるがなるべく道具を使わず苛烈な殴る蹴るといったプリミティブな暴力を振るい文子の体に殴打されてないところはない状態にすべきだろう。また打撲や噛み跡は消すべきではなく、エロスに生還し妻となり綺麗な衣装を着た際にも痛々しく刻印すべきだ。その方がよりタナトスを身近に感じられ、エロスを強く意識できるから。このようにエロスとタナトスは常に表裏一体なのだ。タナトスを描写する為に必要なのはただただ苛烈な暴力の応酬とそれに伴う「死」の接近だ。そのときセックスやペッティングといったエロスにまつわる作業は排除されるべきで、イラマチオやビンタといったそれに準じる暴力も後退を余儀なくされる。なぜならば彼女たちは性的行為でエロスを感じるように、暴力行為でタナトスを感じているからだ。
彼女たちが暴力行為を受けてる時思っているのは犯して、滅茶苦茶にして、ではなく、消えてなくなりたい、殺してくれ、なのだ!!
であるから序章で述べた暴力に性的興奮をするというのとは全く違うことがわかる。
それでは一体どのようにして暴力を通じてタナトスを感じさせれば良いだろうか。

 例えばだ。殴る時に拳がめり込み深く凹む腹と苦悶に歪み、ついでおっさんのように嗚咽し顔を醜く歪め吐瀉物を撒き散らす様。その後顔や体についたゲロを消さず描き続ける。乳を踏みつけるときひしゃげて靴から逃げるように押し出された乳輪と横乳にかけて痛々しく刻印された噛み跡が圧迫され充血している。顔を殴る時に(ビンタではない!)拳が当たる瞬間と、当たって頬が徐々にひしゃげ目をつぶり、顔が傾き、白目を剥き、唇が捲れ上がり、唾と汗と血を飛び散らせて殴り飛ばされ折れた歯が顔があったところで回転する瞬間。まるで漫画「刃牙」のように暴力のディテールを細かく緻密に描写することで彼女たちが暴力に欲情しなくても、その暴力性そのものに立ち現れるタナトスを感じることができる。またこういった丁寧に描くだけでなく、あくまで荒く雑に扱うのも必要だ。欧米に見られるRough fuckやGangBangに近いが、性的行為といよりよってたかって殴る蹴るのリンチを加える、と言うのが近い。この正解例を見つける為にはポルノではなく一般の作品から探したほうがいい。わたしが一つ例を挙げるとするなら映画「ハクソーリッジ」で主人公が軍に所属したにもかかわらず非暴力を貫き連帯責任でチームが繰り返し懲罰を喰らった為、主人公がチームからリンチされるシーンだ。あの容赦のなさ、スピード感、殺意、執拗さは参考になるだろう。あのような過激な暴力をお母さんたちに適応すべきだ。
ここで私が言う暴力性によりタナトスをうむ具体的な例を書いてみた。

 文子が第一夫人の地位を確立してしばらく経った時、夫のシゲルにカレーライスを作ってあげて一緒に食事をする。文子は「シゲル、昔から好きだったわよね」と微笑み、まるで母のように振る舞い調子にのってる。シゲルは敬称もつけない文子を咎めずにおくが、不意に妊活用のピルを飲んでいるか、と質問する。文子はうろたえるが、「母さん、あれを飲むと具合が悪くなるのよ。ほら子供は他の豚に生ませればいいし、私は第一夫人として務めがあるから…」と勘違いしたセリフを言い終わるやいなやシゲルは文子を思い切り蹴飛ばし、「妻であるお前が子を産まないならこの腹はもう必要ないな」と転んだ文子に馬乗りになって腹をなん度もなん度も強く殴りつける。
そして文子は「8年前お腹を痛めて産んだ子が、今私のお腹を痛めつけてる…!!」と出産シーンをホワホワした幸せそうな加工をして回想する。しかし見開きの右ページでシゲルを取り上げる医師が左ページではシゲルに置き換わりボコボコに殴られてる凄惨な現在をグロテスクに加工をして描く。2つの対極的シーンを同じ構図で描きエロスとタナトスを対置するのだ。あまりの激しい腹パンの連打にただのたうち回ることしかできない文子の、シゲルに乗られていない空いた部位、つまり顔や太ももを他の豚がコンスタントに蹴りつけ、文子の体に休む部分はなく、みるみるあざが刻印され肌色の箇所が少なくなっていく。食事中に腹を力の限り殴られたので文子はせっかく夫(息子)のために作ったカレーライスを全部吐いてしまう。この吐くシーンはもちろん詳細に描く。そしてひとしきり吐ききったあと吐瀉物をみてシゲルは文子に無惨にも言い放つ。「喰え」。
そして文子が戦慄し、なんとか回避しようとするが他の豚がせっせとボウルに集め文子の前に置く。この時に漏斗で流し込むのではなく自らの意思で食わすのが良いだろう。ただ一方的に暴力を振るうだけでなく、このような自傷行為もタナトスは推奨する。なんとか食べきった後にシゲルは「よくできたね、さすがは僕の妻だ」と優しい言葉をかけて、文子はゲロまみれの顔で安堵と笑顔を見せるが、次の瞬間また腹パンをされまた全部吐かされる。そして吐ききった時にシゲルがまた無慈悲に「喰え」と命じる。
これを執拗に、読者がもうやめてあげてと思うまで繰り返す。このくだりは大量のザーメンを飲ませて、イラマで吐かせてまた飲ませる「精子を全てまとめてごっくんシリーズ」というAVを参考にしたものだが、エロスはやはりタナトスと相関関係にあるのでこのように精神的な暴力という点では参考になることが多い。タナトスはあくまでプリミティブな暴力であって、何も身体的暴力だけが主役ではない。例えばバンジージャンプをする前の恐怖、陰核を切り裂かれる前の恐怖といった精神的暴力も適応すべきである。しかし違うのはイラマでなくあくまで腹パンという暴力で吐かせる点だろう。
このように豚が殊更暴力に性的興奮させなくてもタナトスは表現できるはずだ。また殴るタイミングも重要だ。予告して殴るのもいいが幸せな時にいきなり殴りつけて地獄にたたき落とし恐怖に顔が変貌する豚もまた一興だろう。

 そして母でありながら息子の妻となった文子は息子であり夫のシゲルに殴打され続けることでタナトスを与えられ、生まれ変わりたいと希求する。そして苛烈を極める暴力の果てに最終的には文子を“殺し”てもいいとすら思っている。
死こそタナトスの根源であり、母文子は死ぬことでやっとシゲルの「妻」に生まれ変わるのだ。
ラストは母文子のお葬式のシーンで終わるのもいいかもしれない。シゲルは妻であり母であった女のことはもう気にしておらず実に機械的だ。他の妻たちも喪服を着ているが明らかに文子を見下している。文子は綺麗な白装束で微笑みを浮かべ棺に白いカーネーションとともに入れられている。去り際に1人の豚が文子の遺骸に唾をかける。すると周りにの豚もそれに続くように一斉に唾を吐きかけ、殴る蹴るで棺を壊し遺骸が顕になるとそれを無茶苦茶に殴りつけ蹴りあげ血祭りに上げる。坊主や他の参列者は戦慄する。しかしその凄惨な現場をシゲル見ることもなく興味なさげだ。この狼藉で文子の髪も服装も乱れ顕になったその身体は青あざだらけで、唇は切れ首筋やはだけた胸元、太ももには噛み跡や根性焼きや切り傷がびっしりついている。そのグロテスクな身体にまた周囲はどよめく。しかしその散ったカーネーションの中で唾まみれの乱れ髪で横たわる文子は作中1番のとびっきりの笑顔を見せているのだ。
いくら外から見て不幸でも忠誠を誓った息子に捨てられても、母文子にとって息子、シゲルの妻となり、豚となってボコボコにされ死ぬことは至上のタナトスであり幸福だったのだ。死してなお苛烈な暴力に晒されても。

この作品が史上初のエロ漫画ならぬタナトス漫画になることを願って。


ハンガーフックとしてシゲルの子孫たちが文子の遺影と墓にしょんべんをかける“墓参り”を描いてもいいかもしれません。また少しでも希望を見出したいなら新しく生まれた子に文枝とでも名づけて生まれ変わりを意識させるのもいいでしょう。死んでるけどw

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