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【詩カフェ】 山之口貘さんってわかりやすくなくなくなくない?

「詩をめぐる対話カフェ」というイベントのために、山之口貘さんの詩集を読み返しています。これまで熱心に読んできたわけじゃないけど、貘さんというとすでに自分のなかに既になんとなくのイメージがあって、それは沖縄生まれとか貧乏暮らしとか放浪の詩人とか自虐的なユーモアとか、まあわりと一般的なものかもしれないですが。

それが講談社現代文庫『山之口貘詩文集』あるいは岩波文庫『山之口貘詩集』を1ページずつめくっていくと、あれ、ちょっと待って?という疑問が湧いてきたりするんですよね。

たとえばあの独特の語り口。「再会」という作品の冒頭は

詩人をやめると言って置きながら しばっかりを書いているではないかというように
ついに来たのであろうか
失業が来たのである

「再会」

と始まるのだけど、この「だ・である調」の感じ。真面目にも聞こえるし、大袈裟でもったいぶったようにも聞こえるし(いや失業は一大事だけど)、それでいてどこか人ごとめいた、冗談っぽくも聞こえる。「友引の日」などは

なにしろぼくの結婚なので
そうか結婚したのかそうか
結婚したのかそうか

「友引の日」

結婚を感慨深く噛み締めているとも取れるけど、なにか人ごとのように捉えてる感じもする。

「だ・である調」のもったいぶった語尾は、それがリフレイン的に使われたりもするので、とてもリズミカルでもある。それでよけいに軽口っぽくもある。なんだろう、この感じ。なぜこんな語り口なんだ。

貘さんの詩はだいたいやさしい言葉で書かれていて親しみやすい。「作者の意図は…」なんて国語のテストみたいなことで悩まずにすむ、気がする。と思いきや、読んでいるうちにまたも疑問が湧いてくる。

先ほどの「再会」という作品では、「僕」のもとに「失業」「失恋」「住所不定」が次々にやってきて

僕をとりまいて
不幸な奴らだ幸福さうに笑ってゐる。

「再会」

ん? なんか変じゃないですか? 「僕」が不幸ならわかるけど「失業」「失恋」「住所不定」が不幸な奴らで、しかも「幸福さうに笑ってゐる」ってどういう状況?

「存在」という詩の第一連の

僕が僕だって、僕が僕なら、僕だって僕なのか

「存在」

というあたりも、言葉はやさしいのに考え出すとこんがらがりそうになる。なんだろう、この感じ。言葉がやさしいからって読みやすいわけじゃない? 

とまあ、そんなふうにポコポコわいてくる疑問こそ、実は詩カフェの好物だったりします。詩を読んで面白かったことはもちろん、気になったことやわからなかったこともぜひ聞かせてください。

*****

「詩をめぐる対話カフェ」は、ゆったり深く詩の話をする会です。
うまくしゃべれなくても、聞いているだけでもオッケーです。
次回は6月2日(日)14時〜16時。テーマは山之口貘さん。

ご予約は今野書店まで。

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