あらまし 「それからはここから」

前作、ホールケーキを切り分けて、からずいぶんと作風が変わった。
焼けつくような、凍てつくような、ヒリヒリとした雰囲気はすっかり穏やかになり、あれ、これは本当にあらまし氏なんだろうか、と今までのイメージが重ならずに少々戸惑いながら頁をめくる。日常の中に埋もれる、それはまるで砂浜できれいな貝殻や石を見つけるような素朴さで、少しずつ研ぎ澄まされた言葉がちらほらと見つかって、やっぱりあらまし氏らしい言葉遣いに安心する。
日記と言う地続きの話としてみると違和感があるけれど、これを日記という形にしたファーストアルバムとセカンドアルバム、というように音楽的に捉えると、これはこれでなるほどと、思う。作風が変わるのは当たり前で、もちろん変わらないアーティストもいる。でも多くの表現者たちは新しい地平を求めて開拓をしていく。
そういう話抜きにしても、私も最近日記をつけ始めたけれど、去年と今年とではだいぶ書いてあることが違う。というか世界観が違う。とすると、人が変わるのは当たり前な話で。
読み手は勝手にあの時のこういう表現が「○○らしい」と括りたくなるけれど、人は変わるものだ。願わくば、あらまし氏が少しでも幸せな方へと歩いているのなら、うれしいのだけれど。きっと最終的にはcoccoみたいに、もう音楽とかどうでもいいから、幸せでいてくれるだけでうれしい。みたいになるんじゃなかろうか、と言う気がしている。

日常から言葉を拾い上げるように読んでいくと、これはすごくエッセイという形の短歌的な物語でもあると思う。なんというか、リズム感が短歌。どうせならこういう感じでどんどん言葉が並んでいる感じの方がずっと読みたいけれど、日記という形であることで、その研ぎ澄まされた言葉の背景が伺えて、やっぱりすごい人だと思う。

あらまし氏はずっと何かを懸けている感じがする。上手く言葉にできないけれど、でも切実な何かだ。そういうものを胸に秘めて言葉を紡いで何か眩しいものを探し続けている。そういう旅人だ。しかもその道のりはきっと険しい。

目標はあらましさんです、と言うのも変だけど、こういう言葉の紡ぎ方にはあこがれるものがある。

谷川俊太郎は二十億光年の孤独という本を出したけど、人知れない孤独の中で言葉を紡ぐ人というのは、そういう場所にいるのだろうか。銀河鉄道の夜では「ハロー、いま君に素晴らしい世界が見えますか?」と歌われているけど、その景色が見える場所までは、果てがないのかもしれない。

というところまで思いを馳せたところで、そうだった。私はそうした切実さを持ち続けることにくたびれてしまったのだと、思い出した。

言葉を胸に海原をひた進む旅人は、傷だらけになったり、生きにくくても、言葉を拠り所にして自分らしさを捨てずに生きていていいのだと、エールを送ってくれる。そうか、これは確かに、ひだまりだ。言葉を探して旅をする人たちは、ここで勇気をもらい、励まされ、この歩みで大丈夫なんだと、きっと前を向ける。私には松明のような、月明りのような、そういう暗がりを照らす希望の光に見えた。

私も、もう一度言葉を拾い集めて、歩き出してみようと思えた。

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