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2021.4.5. 『ヘンリー・ライクロフトの私記』──イギリスの田舎暮らし

『ヘンリー・ライクロフトの私記』は深い思索を溜め込んだ小説です。主人公のライクロフトは歳を重ねて、田舎に隠遁して生活します。

そこから一見、世の中を斜に構えて眺め、「私記」をしたためていくのですが、そこには実は、人生と祖国イギリスへの深い愛情が含まれていました。

この部屋の、これ優るものとてない静謐。最前からここにこうしてただ漫然と空を見つめ、絨毯にこぼれて刻々に移ろう金色の日射しを眺めやっている。額入りの絵から絵へ視線を泳がせ、愛書の背文字を目で辿る。
屋の内はひっそりと静まり返って物の動く気配もない。庭では鳥たちが囀(さえず)って、羽音も聞こえてくる。
仮にも人が訪ねてくる気遣いはなし、自分から会いにいくなどは思いも寄らない。

これがライクロフトの生活です。閉じこもったような、隠遁生活にふさわしい風景です。

ある時、古代ストア派の哲学者を思って引用をします。

神慮の赴くところ、ことごとく賢者の港、憂いなき安息の地

こうした英知はすばらしいと彼は考えます。

自ら選んだこの家こそは心の栖(すみか)である。

また自分の生活に満足を覚えます。

さて、別の時には芸術について思索します。

ふと思ったのだが、芸術とは人に満足を与えて永続する生の歓喜の表現と定義してよかろう。
これは人間が創り出したあらゆる形式の芸術に当てはまる。雄渾な戯曲で あれ、木の葉一枚を象った彫刻であれ、創造の意欲が湧いた時、作者は身のまわりの形象に見て取った無上の歓喜に打たれ、触発されて芸術を生む。

長い間、貧窮のうちに生きたライクロフトですが、やはり生には歓喜を見出すのでした。

それから、目の前の蜂蜜を見て、その香りや味よりも見た目が美しい、と感じます。

サミュエル・ジョンソンは言った。文学の素養があるとないとで人は生者と死者ほどもちがう。ある意味で、誇張ではない。ありふれたものも文学との関連で見方が変わることを考えればよくわかる。
古代、蜂蜜の産地だったヒュメトスやヒュブラを知らず、詩の知識も、恋の思い出もなかったら、卓上の蜜の壺になんの意味があるだろう。

このように、ライクロフトは教養ある人物です。
そして、目の前の卑近ともいえることと、古代の英知は常に結びついていました。ところが、突然、

人間の住むこの星に、正しく茹でたイギリスのジャガイモと優劣を競うほどのものが果たしてあるだろうか。

ヘンリーライクロフト3玉ねぎ

ジャガイモの茹で方は料理術中の秘法で、誰にでも容易くできることではないからだ。 

ここではとくに「教養」が披瀝(ひれき)されません。ただ、祖国のジャガイモ料理が美味しいという話です。次の文章も、教養の話ではありません。

夏の暮れ方、ここはアルズウォーター湖の岸辺である。空はまだ夕映えの名残をとどめて仄明るく、黒い山並みの上にくすんだ赤い光を匂わせている。広やかな湖面は鋼色を湛え、忍び寄る闇が汀(みぎわ)を薄墨に染める。深い静寂をさし越えて、向こう岸の馬の蹄が不思議なほど間近に聞こえてくる。自然がこの聖域で憩っていることをつくづくと感じさせる音だ。

さえぎるところのない、ひとつらなりの文章によって詩心をしたためるライクロフトです。

そうです。ライクロフトは、ただ世を拗(す)ねて田舎に引っ込んだのではありませんでした。

ヘンリーライクロフト2

むしろ、この土地を愛し、風光を喜び、そのなかで自足し、深い満足を覚えています。その生活を基盤として、祖国イギリスの伝統や文化にも思いを馳せる。そうした肯定的な態度を持つ、心の開かれた人物でした。

馴れ親しんで気心の知れた大地と触れ合う幸せがここにある。足音を立てることすらはしたない気がして、歩くにもそっと忍び足だ。道を曲がると下野草(シモツケソウ)の微かな香りが鼻をくすぐる。

シモツケソウ

ここには声高でないある種の永遠さえ、あるのかもしれません。


『ヘンリー・ライクロフトの私記』ギッシング 光文社古典新訳文庫

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