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愛する娘のでこっぱち

わたしの娘は、頭が大きい。

大きくて、かわいい。

笑顔でそう言えるようになったのは最近の話だ。

娘は、生まれたときから大きめだった。

むしろ生まれる前から産科医に「頭が大きめだから難産になるよ」と言われていた。

生まれてからも看護師さんや助産師さんに会うたび、「ご両親とも小柄なのにすごく大きいねえ」「指長いねえ」「親戚に外国の方でもいるの」などと、たくさん言われた。

正直なところ、わたしにとっては初めての子どもで、当時はよくわかっていなかった。ただ周りがあんまり「大きい」「大きい」言うものだから、大きいほうなのだな、くらいにとらえていた。

4ヵ月健診で、はじめて同月齢の子が一気に集まる場を訪れた。

そこで、我が子のあまりのビッグさに衝撃をうける。大きいほう、とかじゃない。ずば抜けてひとりだけ大きかった。ほかの4ヵ月の子たちは、わたしにとって1、2ヵ月くらいの大きさに見えた。

それでいて、ほかの子たちはもうほとんど首がすわっていて「縦抱っこ」も安定していた。娘はというと、大きな頭が重たくて支えられず、首はまだぐらぐら。全然すわる気配がなかった。

だから抱っこも、まだまだ首のうしろに腕を添えた「横抱っこ」がメイン。首すわり前から使えるサポートつきの抱っこひもや、手の支えつきで少しずつ縦抱っこもチャレンジしていたけれど、首を支えない縦だっこなんて考えられないころだった。

健診の待ち時間、ほかのお母さんがひざの上にお子さんを座らせるようにしてあやすのを見ながら、わたしは遠い目でそれを見ていた。ああ、ほんとうにみんなもう、首すわっているんだな。あんな姿勢、全然できないや……。

そう思いながら、暴れる娘を抱っこひもにおさめて、ゆらゆらと立ちながらあやす。暴れられると、ますます頭がはみ出てくる。するとたまたまそこを通りかかった保健所のおばちゃんが、

「お母さん、しっかり! 頭がこーんなんなってますよー!」

と大げさにそっくりかえる身ぶりとともに喝をいれてきた。

そんなの、いちばんわたしが気にしている。

4ヵ月健診では「問題なし」と言われた。

けれどその後、別のルートから指摘があって、5ヵ月のとき紹介状を持って「こども病院」をおとずれた。

どのタイミングだっただろう、ちらりと見えた「大頭あり」の文字列は、なかなかインパクトがあった。大頭。大頭かあ。

ソトス症候群という、1〜2万人にひとりくらいの難病の疑いがあるとされて、ひとまずの検査をしたけれど、結局確定の診断はおりなかった。希望すればさらにこまかい検査もできるようではあったけれど、わたしたちはそれを望まなかった。

病名がついてもつかなくても、現状ではやることが「経過観察をつづけながら必要なタイミングで必要なサポートをする」ことに変わりないとわかったからだ。それなら、病名が確定するか否かにはさほどの意味がないように思えた。

ちなみにソトス症候群というのは大頭や過成長、発達の遅れなどをもつ病気である。なおソトス症候群とひとくちにいっても、その症状は個人差がとても大きいそうだ。あらわれる症状もあれば、あらわれない症状もあるから、必要な治療やサポートも個人で大きく異なる。わたしは専門家ではないので、詳しくは専門機関のページをみてほしい。

ただひとつ実体験を書いておくと、リンク先に書かれている幼少期の症状は、娘にあてはまるところがとても多かった。

生まれたときから頭や体が大きい、その後も過成長。歯も生えるのが早い。運動発達の遅れがある。すべて、心当たりしかなかった。

ソトスという可能性を知ってわたしが「自分の子が難病の可能性があるなんて……」と打ちひしがれたかというと、そうではなかった。むしろわたしは、この病気の存在を知って安心したところがあった。それまで、「何かまわりと違う」と思いながらインターネットの海を泳ぎ、発達障害などの幼少期の特徴を読みあさっては「そうじゃないんだよな……」と悶々としつづけていたからだ。

他人からも、近い身内からも「何かおかしいよ」と言われ、自分もそう思っているのに何のよりどころもない。その時期がいちばん苦しかった。だから、ああ、こういう病気が存在するのだと知れたことは、心強さになった。

さらに当時はわかっていなかったけれど、ソトスの合併症としてあげられている心疾患も、1歳になった後に他の検査でたまたま見つかった。またひとつ、心当たりが増えた。2歳でその手術をした。

今後も側弯など、成長にともなって新しい症状が出てくることがあるかもしれない、と言われている。だからグレーだけれど、ソトスの可能性も考えながら、必要なタイミングで必要なケアをつづけていきたいと思っている。

ちょっと気持ちの背景を記しておきたくて、こまかすぎる話になってしまった。

さあ、本題に戻ろう。

とにかくそんなわけで、娘は頭が大きかった。

0歳〜1歳くらいの間はひんぱんにこども病院に通い、毎度「頭囲」をはかってその値を記録した。

”「標準」の値から、どれくらいはなれているか”。

それを示す数値が、診察のときには毎回説明された。母子手帳には、当時のわたしがプロットした娘の頭囲の記録が残っている。標準範囲なんていつだってとびだしていた。12ヵ月のプロットにいたっては、場外ホームランだ。

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頭囲測定において「標準」との差を、常に意識しつづけていたこと。

医師が記した「大頭あり」の記述を見たときのインパクト。

その後調べたソトス症候群のページで、その病気の特徴として「大頭」が真っ先にあげられていたこと。

これらの背景がわたしに「娘の頭の大きさ」を、病的なものとして必要以上に気にさせるきっかけになったのではないかと、いまふりかえれば思う。

わたしは自然と、娘の頭が大きいのは「恥ずかしい」ことだと思うようになっていた。しかもそれはほとんど、無意識にそう思うようになっていた。当時は、気づいていなかった。

髪の毛も、他の同月齢の子よりはるかに薄かった娘。お坊さんみたいにはっきりと頭の形が見えるので、さらに頭の大きさが際立っていた。帽子をかぶせれば目立たないからと、積極的に帽子をかぶせたりもした。

せめて髪が増えれば、頭の形が目立たなくなるのになあ。ずっとそう思っていた。後ろ髪は結べても、おでこのほうは全然前髪がはえてこない。早く、前髪が伸びてくればいいのにな。もう、ここから先は生えてこないのかな。頭、目立っちゃうなぁ……。

ほんとうにずっと、そう思っていた。

あれは、娘が2歳のころ。

とあるショッピングモールのキッズスペースで娘が遊んでいたとき、見知らぬ5歳くらいの女の子が娘をじっと見つめ、こう言ってきたことがある。

女の子:「この子、男の子? 女の子?」

わたしはなるべく平静に「女の子だよ〜」と答えた。けれど同時に、じろじろと異物をみるようなまなざしを、なるべく避けたいという感情も生じてしまっていた。

その子は、さらに娘をじーっと観察して、また言った。

女の子:「ちょっと、あたまが大きいみたいだけどぉ〜?」

正直に言おう。そのときのわたしは、これがショックだった。なぜそんなことを見ず知らずの女の子に言われなければならないのかと、思った。いまのわたしだとまた反応はちがうのだが、当時は反射的にそう思った。

ただそのときのわたしも、「きっと子どもに悪気はない」と思っていたので、怒る気持ちはなかった。ただ、「異質なものとみなされた」「悲しい」ような感情を、自分でどう処理したらよいのかわからなかった。反応に困って「そうかなあ?」と笑ってごまかすので精いっぱいだった。

後からふりかえると、ああ、わたしは「隠そう」としたのだなと思う。「そうだねえ」ではなく「そうかなあ」というとっさの物言いに、わたしの本心があらわれていた。

頭が大きいことは恥ずかしいことだと、隠したいことだと、無意識にそう思っていた。当時のわたしは、自分がそう思っているなんて理解できていなかった。それくらい潜在的に、呼吸くらいのレベルでそう思いこんでいた。

差別意識は、あの女の子じゃなくて、わたし自身の中にあった。

いまそうやって書けるのは、その後、夫にこの一件について話し、意見を聞いた経緯があるからだ。

ある女の子のひとことに、自分が不快な気持ちを抱いてしまったこと。この先、集団生活などでそう言われることが増えていくんじゃないかと不安を感じること。異質なものを排除するようなシーンって増えていくよね、と思うこと。こういうとき、どう反応するのがよいのだろうということ。

それを夫に共有して、意見を聞く。

ぽつらぽつらとやりとりをしたあとで、夫はこんなことを言った。

夫:「……そういうこと思うってさ、ちょっときついこと言うかもだけど、ぽこ自身がそういうことに、差別意識をもっているってことじゃない? 頭が大きいことは悪いことだ、っていう。そうじゃなきゃ、頭が大きいことを指摘されても気にならないはずだと思う」

夫はわたしよりよっぽどフラットな人間だ。

嬉しい感情では決してなかったし、できれば認めたくなかったけれど、「ああ、いまの自分の感情からすると確かにそうなんだろう」とも思った。

そんなことないと、否定できなかった。

もやもやと灰色の感情が胸のうちにうずまいた。

そういえば小学生のころ、自分もちょっと容姿に特徴のある男の子を、なんとなく遠巻きに見ていた。そんな記憶が頭をよぎる。

いま考えると、その男の子にも親御さんがいたのだ。そう考えると、苦しい。その苦しさを感じるのは他でもなく、自分が当時「あまりその子に関わらないようにしよう」としていたからだろう。

一方でいま、この文章を書きながら、彼のことをどこかちょっと不幸だった、みたいな書き方をしている自分もまた、気持ちがわるいなと感じた。

中学生のころ、その男の子には彼女ができた。彼女も独特の雰囲気の子で、まわりからは少し距離のある空気感の子だった。わたしはそれを遠巻きに見ているだけの人間だった。

もしかしたら彼らは、わたしよりよほどハッピーに暮らしていたのかもしれない。わたしの初彼なんて大学生だぞ。少なくともその点において、わたしよりよほどハッピーに過ごしていたのは事実だ。わたしの視点で、わたし以外のだれかのしあわせを決めつけるのはごうまんすぎる。

……話がずれた。

夫にショッピングセンターで起きた一件の相談をしていたわたしは、そうやって自分の中に「差別の種」があるということに気づかされてショックを受けつつも、ああ、認めざるをえないのだと思った。

同時に、「じゃあ、どうしたらいいのさ」とも思った。わたしだって理想はフラットなんだ。フラットになりたい。すぐには無理でも、不完全でも、せめて近づきたい。

夫に教えを乞うた。

私:「じゃあ夫さんだったら、女の子にじろじろ見られて『あたま、大きいみたいだけどぉ?』って言われたとき、たとえばどうやって返す?」

夫:「うーん。場面にもよると思うけど。『うん、頭大きいんだ〜』とか? 事実は事実として認めて、それについての主観をつけない、みたいな」

私:「あー。じゃあたとえば『へんなのー!』って言われたら」

夫:「うーん、『へんかなあ〜?』とか? 頭大きいのは”事実”だけど、変かどうかは”とらえ方”だから、相手の見方を肯定も否定もしないと思う」

それは確かに、夫らしいと思った。フラットだ。すばらしい。その境地にたっている彼をわたしは尊敬する。尊敬するし、うらやましい。

未熟なわたしも、そうなる鍛錬を積まなければなるまい。

はっきりと意識していたわけではないけれど、たぶんその後くらいから、わたしの「娘の頭の大きさ」に対する認識は第2フェーズに入った。

それは「隠そう」「目立たないようにしよう」と気にしすぎていた娘の頭の大きさを、「気にしない」「特別視しない」ように試みるフェーズだ。

事実を事実として、受け入れる練習をしようと思ったのかもしれない。

あるがままを受け入れる。

頭が大きいのは、そう。それは事実。そしてそれ以上でも、それ以下でもない。「そうそう、うちの子、頭大きいんだよね」と普通に言える。

なるべくそういうフラットさを身につけたいと思っていたし、意識するようになってだいぶ、それができるようになったと思っていた。

でもほんとうは「気にしないようにしよう」「特別視しないようにしよう」と思うあまり、ずっとそのことを意識しつづけていたと思う。「気にしてはいけないもの」として。

いま考えると、そう思う。

そうして「フラットに」「フラットに」と意識しながら過ごす日々で、わたしは娘の頭の大きさについての感情を、自分なりに消化した気でいた。

ほんとうは消化なんてできないまま、胸の奥底でくすぶっていたのに。その証拠にわたしは、娘のおでこを見るといつだって「早く前髪伸びないかなぁ」と思っていた。

”いやいや、気にしない、気にしない。そこはそういうものとして受け入れよう”とセルフでツッコみつつ、それでもすきあらばやっぱり隠したいと思っている。そんなところから、全然抜け出せていなかった。

そんな未消化の感情と向き合うきっかけをくれたのは、育児とも病院とも関係のない、まったく予想外のところだった。

それは、1本のYoutube動画。

モデルでタレントのローラさんが公開していた、1本のメイク動画である。

ご本人が自分の手でナチュラルメイクをほどこしてゆく過程を、紹介した動画。

わたしが何気なくそれを見ていたとき、アイシャドウ、マスカラ……と美しくメイクが重ねられていった後半で、彼女はさらっとこう言った。

「つぎは、ほくろの時間です!」

え? ほくろ。

ああ、コンシーラーでほくろを隠すとか、そういうことかな。そう思って見ていたら、彼女はつづけてこう言った。

「わたしね! ここと、ここにほくろがあるの。で、このほくろをチャームポイントにしようといつも思っていて。で、メイクすると中途半端に薄くなるから、これをちょっと足すの!」

にこにこと微笑んでそう言いながら、実際にちょん、と黒い点をふたつ描き足した。化粧で薄くなっていたほくろの、その位置にわざわざ。

これを見たとき、すこん!と何かがわたしの中に落ちた。

おそらく化粧をする多くの女性たちが「シミ」や「ほくろ」なんていう顔の中の「不均衡なもの」「アンバランスなもの」を隠そうと躍起になっている中、彼女はわざわざメイクの中でほくろを描き足す。

あ。

わたしに足りないのは、この考え方なんだと素直に思った。

その前は「気にしない」フェーズだった。

でも「気にしない」と「チャームポイントにする」は全然ちがう。

どうしたってそこが「目立つ」のは事実なのだから、それを「気にしない」のはむずかしい。少なくとも、わたしにとっては。

だって気になるのだ。どうしたって、気になるのだ。

だから、「気にする」「目にとまる」は事実でよかった。気にしないようにしよう、と思わなくてよかった。「特別視」したって、よかった。

大事なのは、「どう」特別視するかだった。

さてここで、娘の頭の大きさに関するわたしの思考変化をわかりやすくまとめよう。

まず「標準」との差をあまりに意識させられていた、娘乳児期におけるわたしの初期思考フェーズはこうだ。

1.気にする、目につく →→ (半ば無意識に)隠す、目立たなくしようとする

そして自分の中にあった「差別の種」に気づかされたあとの、次なるフェーズが、こう。

2.気にする、目につく →→ 気にしないようにがんばる

だが、ローラさんの動画を機に、次なる選択肢をはじめて認識した。それが、こうだ。

3.気にする、目につく →→ チャームポイントとして特別視する!

ローラさんの「ほくろはチャームポイント」動画を見て、わたしはいたく感動した。

見方によっては「隠すべきもの」とされるほくろを、あえて描き足す。均質、均一な肌が美とされるなかで、アンバランスや不均衡の持つ魅力に目を向ける。むしろそれを、チャームポイントにする。

ローラさん、天才か。そう思った。

人によっては「嫌なもの」を、むしろ「大事なもの」としてとらえる。

そこに思いを馳せているとき、そういえば、過去の自分にも近い話があるなと気づいた。

わかりやすいところだと、わたしの場合は「くせ毛」と「メガネ」だ。

いまでは自分をイラストに書くようなとき、「これがわたしのアイデンティティ!」とでも言わんばかりに、まずメガネやくせ毛のうねりを書く。

でも中学生くらいのころは、そういえばメガネもくせ毛も、嫌で嫌でしかたがなかった。目はコンタクトレンズに、髪は縮毛矯正にチャレンジして、とにかく見た目を「周りの子と一緒」にすることに一生懸命だった。

言いかえればこれも当時の「標準」に近づけようとしていたんだなと思う。

結局コンタクトレンズは体質にあわなくてメガネに戻った。だから高校時代は、授業中だけこそこそとかけていた。フレームも、「縁無し」や「上だけ」など、できるかぎり素顔に近く見えるものを意識して選んでいた。とにかく「目立たせないこと」が最重要だった。

大学生になったら、どこでだれに会うかわからない。やむなく常時メガネをかけるようになった。ただそのころ、ちょうどメガネの価格破壊が起きた。

安くてかわいい、ファッション性の高いメガネがたくさん出て、はじめて自ら「目立つ」メガネを買った。透過性のある穏やかなピンクの、太いセルフレーム。それから先は、メガネを選ぶのが楽しくなった。

縮毛矯正も、高校時代の途中でやらなくなった。お金がかかるのが主な理由。でも「髪色を変えると重たくない」など、他の見せ方を知ったのも理由だと思う。

そのころからは美容院でも「くせ毛を活かした感じのカットをお願いしたいんです」と相談するようになった。そして自分が「これも案外、いいかも」と思いはじめると、ふしぎなことに周りでも「そのクセ、かわいいね〜」と褒めてくれるひとがあらわれはじめた。

いまではメガネもくせ毛も、もうすっかり自分の一部として違和感がない。

ドレスアップする日に使い捨てコンタクトを使うときはあるけれど、年に1、2度あるかないかだ。普段着のわたしからメガネとくせ毛をとったら、もうそれは自分じゃないくらいの感覚。落ち着かないし、たぶん力が出ない。

昔は泣くほど嫌で、あれほど「目立たせない」ことに必死だったのに。

いつのまにかそれらの要素は、わたしの中で大事なものになっていた。

ローラさんのことばを借りればそれは「チャームポイント」だし、わたしのしっくりくることばで言い換えるとそれは、「アイデンティティ」だ。

わたしをわたしとして認識させてくれる、愛しい要素。欠かせない要素。

頭、おっきいなあ。おでこ、おっきいなぁ。

いまも、娘を見てそう思うこと自体は変わらない。けれど、ローラさんのひとことに出会ってから、そのあとに「これも娘ちゃんの、チャームポイントだなあ」というひとことが脳内でついてくるようになった。

「気にして」よかったのだ。「特別視」してよかったのだ。

そうだ。「特別」に「愛で」たら、よかったのだ。

最近、むすめのおでこがかわいい。

あいかわらずちょっとアンバランスで、重たそうだけど、最高にかわいい。

アンバランスがかわいいんだな、という考え方がインプットされたから。

3歳になり、ますます力強くなってきた娘。どん!って勢いよく抱きついてくると、けっこう痛い。料理中なんかだと「危ないよ!」ってどなったり、してしまう。あいかわらず未熟ほとばしる母だ。

でもわたしにしなだれかかってきて、近くに甘えた顔が見えると、愛しくて。思わず、反射的におでこへ「チュッ」てしてしまう。

かわいい娘のでこっぱち。

もしいま、あのショッピングセンターで出会った子に同じことを言われたら、わたしはなんて言うだろう。

女の子:「ちょっと、あたまが大きいみたいだけどぉ〜?」

私:「うん、そうなのよ!」

って、笑顔で言えそうな気がする。いまなら。

もしそのあとに、

女の子:「なんか、へんー!」

って言われたら、

私:「そっかー。わたしは、チャームポイントだと思ってるの♪」

って言おう。ローラさんの「陽」の空気を思い出して。

いや、そんなかわいく言えるかな? あんまり自分の語彙に「チャームポイント」ってないから、とっさだと出てこないかもしれない。

そのときは「わたしは、好きだよ〜」って笑顔で言おう。

シンプルで、間違いない。

わたしの娘は、頭が大きい。

大きくて、かわいい。

大好きだ!

愛してる。


(おわり)


この文章は定期購読マガジン内「陽のひと」を書き終えたあとに生まれた続編(orスピンオフ?)みたいなものです。#キナリ杯 にささげます。キナリ杯という機会がなかったら、これらの気持ちを、公開する文章に書くことはなかったと思います。機会をあたえてくださった岸田奈美さん、長い文章をここまでお読みくださったみなさん、ありがとうございました。

自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。