note愛についての補足。
noteはわたしにとって、心の拠りどころのような場所である。
とつぜん何を言い出すのかという感じだが、昨日「非公式noteオフ会@福岡meetup」に参加させてもらって、個人的に抱えているnote愛をうまく消化しきれないままタイムアップとなってしまったので、ここにぽつり、書いておこうと思った。「ほ、ほんとうは、こんなことも思ってるんです、しゃべり下手すぎて言えなかったけれど」と。
そう、だいたいにおいて、わたしはリアルで「話す」ことに向いていない(接客や取材は好きだが、あれは「聞く」がメインだからだ)。
頭の中ではいろいろな思いが渦巻いているのだけれど、相手が仲良くなりたい方であればあるほど、初対面で嫌われたくないという思いが働いて、自分の素直な気持ちをことばにしづらい。
するとたいてい、無難でつまらないことしか言えないので、そりゃあもう相手の印象に残らない。ごもっともだ。
吉玉サキさんが昨日のエッセイ『自分の思う自分と、他人から見た自分』で、「自己認識と第三者から見た自分って、こんなに違うんだなぁ」という話をされていて、おこがましくも、ああ、これとても共感……!と思ってしまった。
自分のなかでのその乖離に、わたしはいつももやもやを抱えている。
それがプラスすぎる評価なら、「いやすいません、そんなたいそうなもんじゃないんです」と。それがマイナスすぎる評価なら「いやあの、何も考えてないわけじゃなくてちょっとは考えてはいるんです、頭の回転遅いだけなんですむしろ文字でやりとりさせてください」みたいな。
でもだからこそ、わたしはnoteに救われている。わたしにとってnoteは、自己認識と第三者から見た自分の乖離を、じわじわとうめてくれるような役割があるのだろう。
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率直に言うと、現時点のわたしにとってはnoteという場所が、もっとも無理をせずに、自然体の自分でいられる場所だ。
かつてはFacebookで熱心に投稿していた時期もあったが、ここ数年はまったく更新していない。いまになって思えば、一時期は、"なんだか楽しそうなことをやっている自分”を演出することに精一杯だったのだ。
当時はもはや、それが仕事なのかプライベートなのかだんだんとわからなくなり、疲れ果てて続けられなくなってしまった。
そんないろいろな失敗も経て、たどりついた場所が、note。noteを書き始めた経緯は、以前こちらのnote『誰かの評価のためじゃなく。』に暑苦しく書いた(いま改めて読んだら自分でも暑苦しい。でもその当時の自分の正直な文なので、せっかくだからそのままにしておこう)。
その後、トピックはいろいろと広がったけれど、やはりnoteで書くことだけは、「とりつくろう」ことをしていない。
読んでくださる方がいる以上、読みやすさや表現は意識するけれど、扱っている気持ち自体にはうそがないのだ。建前がない。
自分の内面にまとまりなく落ちているものたちを、ただただ、ひっぱりだして、読みやすい形にして置いてゆく。無理にどこかのだれかのコンテンツを書かない。これだけはnoteをはじめてから一貫している。
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だからnoteはわたしにとって、心の拠りどころのような場所である。
リアルの自分が語る以上に、自分の考えていることをあらわしている場所だからだ。なんなら自分でも気づいていなかったようなことを、noteという場所があって書くことで、「ああ、そんなことも考えていたのか」と気づかせてもらったりしている。
普段noteのコメント欄やtwitterを介してやりとりをしてくださっている方々は、一度も会ったことがなくとも、リアルの知人や友人以上に、わたしの正体というか、めんどうくさい本質をよくご存知だな、と思っている。
リアルで話すことが苦手な自分は、文字にするほうがよほど、自分の気持ちを正直に表現できる。頭の回転がおそいので、話しながら、その場でぽんぽんと反応することが難しい。同じ文字でも、twitterのテンポ感もわたしにはちょっと早すぎる。一呼吸おいて、ゆっくりと考えたい。
そんなめんどうくさい自分に、心地よく自分を保つための場所を用意してくれたのがnoteというプラットフォーム。暑苦しい思い過ぎてなかなかここまでちゃんと書いていなかったけれど、あまりに昨日何も伝えられなくてくやしかったので、書いてみた。おしまい。
▼note愛について触れている、これまでの過去記事たち。数々のブログを挫折してきた自分が、なぜnoteなら書き続けられるのかは、こちらに。