とるにたらないスズメと枝の話

そのとき私は3階にいて、大きなガラス窓に面したカウンター席に腰かけ、ぼんやり外を眺めていた。

ガラス窓からは、街路樹の上のほうの枝が目の前に見える。枝分かれを繰り返し、先の方は若い枝でかなり細い。手で少し力をかけたら、子どもでも簡単にポキリと折れそうなほど華奢な枝ぶりである。

そこへスズメが3羽、チチチチとやってきた。

何のためらいもなく、それらの細い枝々にとまる。見ているこちらは、え、大丈夫か折れないのか、と思うのだが、なかなかどうして、スズメがとまる瞬間には少したわんでハラリとするものの、ポキリとはいかず静かにスズメを支えている。

その後も、スズメたちは何かをついばみながら、細い枝を次々に、ちょん、ちょん、とこまめに移動してゆく。よくもまぁそんな細っこい枝にちょんちょん登ろうなどと思えるものだ。

そのようすをみていて、なんだか、ほう、すごいなぁと感心したのだった。

考えてみれば当然のことかもしれない。人も、ここに乗ったら板がわれそうとか、ここに座ったら壊れそう、というのは見るだけでもだいたいわかる。スケールが違うだけで、事柄自体はなんでもないことだ。

じゃあなぜ「ほう」と感心したのだろう、と自分自身にクエスチョンマークを投げかけながら少し考えていて、思った。

たぶん私は、あんな細っこい枝にスズメくらいの重量がありそうなものが耐えられる、と思っていなかったのだ。そしてその無意識の予想に反して、いとも簡単にスズメがちょんちょんと乗っかるものだから、ほほうと感心してしまったのだ。

例えばこれが蝶や小さな虫であれば、何の意外性もなかった。だがスズメがとまるとは思えない枝にスズメが当然のようにとまるから、感心したのである。

ここまで行き当たりばったり書いていて、書きながら気づいたことは、人は「すごいなぁ」と思っているとき、意外と何がすごいと思っているのか意識できていないことが多いということだ。

なんかわからないけどすごいね。そんなことで世界は満ちている。そしてよほど興味のある分野をのぞいて、そのくらいで流れていて何の支障もない。

「でね、こんな折れそうなくらい華奢な枝にスズメがとまってさー、すごいよね〜」
「へぇ〜」

それくらいで流れるのがむしろ自然な会話である。

ここで

「でね、こんな折れそうなくらい華奢な枝にスズメがとまってさー、すごいよね〜」
「そうですか? 人でも木登りするときに、その枝に自分の重量が耐えられるかは瞬時に見分けられるじゃないですか。いったい何がどうすごいと感じたのですか」

となる人は、まあ、いるにはいるけれど、結構特殊である。

ただ、日常のなんてことない、とるにたらない、いつもスルーしている小さなことたちは、改めて目をとめ、もう一歩ふみこんでみると、実はちょっとおもしろいと思う。

そしていつもの、何の変哲もないと感じている日常のひとつひとつが、ちょっといや結構おもしろいじゃないかと思えると、人生の大半が楽しい。

人生の大半をしめている時間を、人は日常と呼ぶのだから。

自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。