見出し画像

藤井風はやっぱりあたらしい世界をつくるのか

わたしはアーティストがとてもすきだ。ダンスをずっとしていたし、歌うのもすきだから、とくに、歌や踊りで表現しているひとたちへの憧れがつよい。

だけど、世の中のアーティスト(ここでは、歌手に限定するね)は、ほんとうに自分のつくりたいものだけつくっているかな、と思うときがある。純粋な自分のよろこびのままに音楽に向き合ったとき、おなじ音楽をほんとうにつくっているんだろうか。

わたしには、売れるためのコンテンツをつくっているようにしか見えないから(とくにキャリアが長くなればなるほど)。それは、もちろん大衆に響くように設計してあるから、きちんとこころに響くものにはなっている。商業的な音楽でも伝わるものはたくさんあるし、わたしだっていまでもすきだ。

だけど、売れること、つくりつづけること、いつまでも上位にいることに価値を置いたアーティスト活動では、ほんとうの自分からは離れていくんじゃないかと。

表現のプラットフォームは、昔にくらべて一極集中ではなくなった。だから、有名なアーティストでも前に比べたら自由に表現できる方法は増えていると思う。それでもやっぱり、知名度や再生回数で上位を競う構造は変わっていない。

わたしは、すきなアーティストを見ていると、このひとが純粋につくりたいものをつくりたいときだけつくることが許される世界ができたらいいな、と思っている。

だって、アートって、アーティストって、本来そういうものでしょう。

はじめは自分がすきで仕方なくやっていたことが、次第にだれかのためになる。評価されるためになる。だんだん自分から離れていく。

そうじゃなくて、自分がすきで仕方ないままできる世界だってあると思う。そうやってつくったものでは、離れていく人もいるかもしれないけれど、変わりにそれをすきだといって残ってくれるひとだっているだろう。

世に出てるアーティストたちは、とてつもない数のひとのハートをわしづかみにしてしまうほどエネルギーが大きいひとたちだから、活躍する舞台というのはどうやっても大きいところになるんだと思う。

だからこそ、ピラミッド構造の商業ベースのおおきな舞台ではなくて、本来のすがたのままのびのびと活躍できる場があればいいのにと、いつも思っている。売れるためを手放したとしても、それでも、間違いなくたくさんのひとに愛されるよ。大きな舞台が合うひとは、かたちを変えたって、大きな舞台が合う。消費されるコンテンツ以上の存在だもん。

なんてことを、いつも考えているわけだけど、いまわたしがすきな藤井風くんが、紅白に出場し、アルバム2作目を出し、勢いのあるところで、ホールツアーをするという。それもバンドなし、ひとりで。

これまでのアーティストのかたちだと、たぶんあり得ないことだと思う。ふつうなら、会場を大きくして、知名度と売上をもっともっと、というところだ。

藤井風くんの歌に表現されている哲学では、執着を手放そうとか、足るを知るというものが多いけれど、皮肉なことに彼はまったく反対のピラミッド構造の世界にいる。それがまたおもしろくて、これからどんな活動をしていくのか動きがとても気になる存在だ。そんな矢先のこじんまりとしたツアー発表に勝手に期待をしてしまった。

彼の持つ哲学を体現していく、やっぱり風のように自由なアーティストなのかな、なんて。わたしがずっと思っていた、新しいかたちのおおきな舞台をつくっていくひとなんじゃないか。やっぱり大物(いい表現が見当たらん)でも、自分を失わずに多くのひとに声を届ける世界線があるのでは...なんて興奮してしまった。

ファンというのは、気持ちのわるいもので、自分の理想像にアーティストを勝手に当てはめてよろこんだりするから、いやになる。期待なんかするものか、といいつつ、ついしてしまう。神さまでいさせてほしいけど、人間でしかいられない。

(途中だけど、眠いからあげちゃう)

みんながのびのび生きられる世の中を夢みて、活動しています。よかったら応援よろしくお願いします^^