人のふくらみ

10年くらい前、あるパーティで記念に刊行された新聞に書いた文章が、長年手をつけないでいたフォルダから出てきた。書いたことも忘れていたくらいだったけれど、読み返して、10年前もすでに多くのものを落とし、失っていたことを再確認することになったのだけれど、同時に、こうやってしつこく繰り返す失態をなぜ書き留めているのかも過去の自分にこっそり耳打ちされたような気分になった。

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私は多くのものを落とし、失い、その度に多くのエネルギーとお金と時間も費やした。そういうときは大抵連続しておこり、すっころんだり乗り遅れたりチャンスを逃したり、ふんだりけったりだったりする。でも不思議なことに、大抵いつも何かふぅっと風が吹き抜けることがある。

今までに落とした財布などを何度も拾っていただいたので、誰かの落とし物を拾ったら必ず届けるようになったけれど、紛失後の様々な手続きに追われた娘を見てきた母は、つい先日、お金を抜き取られた財布を拾い微妙な気持ちで向かった交番で、落とした人と遭遇。とても感謝されたらしく、母はちょっと嬉しそうだった。

ある日曜の夜に鍵が入った鞄を新幹線の中に置いてきて、家に入れなくなったことがあった。管理会社にも連絡がつかず、ビジネスホテルに泊まるか悩んだけれど、友人の家に避難させてもらった。友人が温かいお茶と、ある絵本を見せてくれて、それは本当に素敵な本だったので大喜びしていたら、「今日はこの本に出逢うために来たんだねぇ」という言葉。その夜のしょんぼりがもうどこかに吹っ飛んでしまったくらいだった。ビジネスホテルに行けばあったかいシャワーもお布団も得られただろうけれど、ここに来なかったら私は落ちたまんまだったなぁと、思いながら温かい布団で眠った。

日々の中で、大なり小なりしょんぼりな出来事はいくらでもあるのだけれど、その多くは人によって救われている。知っている人でも知らない人でも、関わることによって心はいくぶんか軽くなる。溢れかえる情報や早くなりすぎたスピードで息苦しくなった世の中においても、ちょこんと佇んでいる人の優しさや寛容みたいなものに気づくからだろうか。一日の本数が少ないバス停でちょこんとおかれた椅子や、地方の無人野菜販売所にある誰でも持っていけるようなちゃっちい貯金箱や、そういうものをみた時にふぅっと抜ける風に似ている。

病気になった人や、大切な人を失った人、様々な苦しい思いを経験した人は、健康であることのありがたさや、毎日暮らしてゆけるありがたみを知っていて、周りへの感謝の気持ちや優しさをパワーアップさせているように思うけれど、きっと彼らはそういう気づきにたくさん巡り会ったんだろう。人の豊かさとか厚み、その人らしさっていうのは、そういう出逢いが重なって、ぷくぅと丸みを帯びて膨らんで、良い感じになってくるんじゃないかと思っている。

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このとき私が書いていた「人のふくらみ」は、ほかの人の凹みにそっと寄り添うように入って言ってふんわりと塞いでくれるようようなもので、私はその柔らかな凸凹の感触をいつでも呼び起こせられるようにしたいんじゃないだろうか。あれから10年近くも経っているけれど、相変わらず、私はしょっちゅう凹みを作って、たいてい誰かにふんわりと塞いでもらっているような気がする。

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