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見えるのか 見ないのか 見たくないのか~ポケット企画「見ててよ」事前鑑賞会にて(わたなべひろみさん)

9月中旬、ポケット企画の稽古場で「事前感想会」を開催しました。
以前、事前批評会を開いた際、観劇のきっかけとして多くの反応をいただきました。創作の面でも、人の評価を事前に知ることで自分達の現在地がわかり、本番へ向けて集中することができました。しかし、批評という行為はハードルが高く、企画として成立させるためには書き手の負担も大きかったことから、今回は「感想会」としてリニューアルしました。数字やランクによる評価制度も廃止し、純粋な「書き手の感想」を皆さまへお届けします!
事前の通し稽古をご覧いただいた感想ですので多少のネタバレを含みますが、本番はそれ以上の情報があります。観劇の参考にしていただければ幸いです。

見えないモノを信じるか信じないか。それは人それぞれ。

他人が見えているものを「そんなの見えないよー。ウソつきー」と、否定するのは簡単だ。
もちろん、本当に見えていないのかもしれない。
でも、実は、「見えない」のではなくて、「見ようとしていない」あるいは、「見たくない」だけなのかもしれない……そんなことを考えながら、今回初という通し稽古を見せていただいた。

「見ててよ」というのは、誰の言葉なのか。
前回見た「おきて」もそうだったが、ポケット企画のつくる劇はタイトルから考えさせられる。決して難しい言葉ではない。イマドキのボカロの歌詞のようにこねくり回した不思議な日本語というわけでもない。普段づかいのやさしい言葉だ。ところが、色の違う薄い布が幾重にもなっているような、ひっくり返したら全く別のものになっているような、そんな気がしてしまう。役者たちが動き出す前から、すでに物語は始まっているのだ。

老舗旅館に住み着いた座敷童の「わらし」とその取材にやってきたオカルト誌編集者「大森」、見えないモノが見える少女「ちえ」。旅館の女将も本当に実在しているの? とちょっと怪しい。でも、「わらし」がいなくなると旅館の損失になると考えるくらいだから、きちんと人間なのだろう。
そして、もう1人。

「おきて」のときは、ダンス的な動きも取り入れられて、否が応でも「身体」を意識させられた。「身体」を持っている者と持っていない者の対比。それを視覚で強調されているのかなあと。今回の「わらし」ともう1人も本来は生きてる人には見えないモノ。でも、見えるのか見えないのかは、視覚ではなく言葉のやり取りから浮かび上がってくる。

「わらし」と「ちえ」の関係性も不思議だ。「見える」という繋がりから当たり前に交流し、年頃の近い女の子同士キャッキャしている。では、「ちえ」という少女はどんな心情でここに連れてこられたのだろうか。手伝いという名目はあるにしても、自分が「見える」ことをどう捉えているのだろうか。いわゆる「普通」から少しはみ出した自分を「わらし」と近しいものと思っているのだろうか。

もう1人。「れい」の存在がクローズアップされるところから、グンと話が面白くなる。
え? 見えていないの?? と。

老舗旅館の一室という限定された空間で、時間も時代も越えて、明かされること。悲しい事実もあるけれど、「わらし」は自分で行く末を選ぶ。ただこの辺りの展開にわかりにくいところもあった。感覚で受け取る部分と説明として明らかになるところを意識しないと見逃してしまうかも。

先日読んだ、荒川弘の「黄泉のツガイ」の新刊の中で、とあるおばあちゃんが「座敷童がいなくなるから、その家が廃れるのではなくて、家の中でもめ事が起こっているのが悲しくて座敷童が立ち去るのでは」といったことを話していて、「なるほどー」と思った。

「わらし」には、そこに残る理由があった。それもうれしい理由が。ここは、このまま座敷童(プラス1)の宿る旅館として安泰なんだろうなあ。

と、ほんわかハッピーエンドで終わらないのがポケット企画。

ぜひとも最後まで気を抜かずに見てほしい。

怖くはないよ。でも、ちゃんと見ててね。

【執筆者プロフィール】
わたなべひろみ
札幌生まれ・札幌在住。建築設計デザイン、広告営業などを経てライターに。働き方や教育、一次産業、住宅関連など多岐に渡る分野でのインタビュー・取材記事を執筆。北海道の演劇に魅せられて12年余り。ふらりと観に行っては、感覚的な感想をつぶやく。