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あなたの物語を、霊視する―ポケット企画『見ててよ(再演)』によせて(かないりょうすけさん)

9月中旬、ポケット企画の稽古場で「事前感想会」を開催しました。
以前、事前批評会を開いた際、観劇のきっかけとして多くの反応をいただきました。創作の面でも、人の評価を事前に知ることで自分達の現在地がわかり、本番へ向けて集中することができました。しかし、批評という行為はハードルが高く、企画として成立させるためには書き手の負担も大きかったことから、今回は「感想会」としてリニューアルしました。数字やランクによる評価制度も廃止し、純粋な「書き手の感想」を皆さまへお届けします!
事前の通し稽古をご覧いただいた感想ですので多少のネタバレを含みますが、本番はそれ以上の情報があります。観劇の参考にしていただければ幸いです。

私がポケット企画の演劇を観たのは2019年冬の第2回公演『平等の部屋/未明』が最初で、『見ててよ』の初演は私自身が札幌に移る前の公演で観られていなかったのだが、今回の再演に際して友人でもある代表の三瓶から通し稽古の映像を拝見する機会をいただいた。1時間強の上演を観終わり、まず感じたのはポケット企画らしい小気味良いセリフの応酬と素直でまっすぐな作り手の思いが感じられる作劇への懐かしさだった。5周年を迎えてもなお精力的に挑戦を続ける劇団が、原点ともいえる初演作に立ち返って行う再演は、瑞々しい言葉と揺るぎないドラマが両立し、観ていて清々しい。

旅館の一室で、少女と少年が会話するところから劇は始まる。少女はどうやら座敷童子、少年もこの世のものではないようで、少年は少女の目には映っていない。そこへ新聞記者とその姪っ子が客として訪ねてくる。二人はこの部屋に棲む座敷童子の取材で、姪のほうは霊視の能力を持っているらしい。自分の専門は文献の調査だから、と怯える記者の男。座敷童子の少女は二人にちょっかいをかけ始める。ここから、劇は座敷童子と少年をめぐる感情のドラマをたどっていく。

この作品で焦点となっているテーマはいくつかある。例えば存在と不在、可視と不可視(ここにいることといないこと、いるのに見えていないこと)という主題はポケット企画がこれまでも『おもり』(2019)や『ここにいて、』(2021)などで何度か取り上げてきたものだし、自分自身の出自をめぐるストーリーは短編劇『歴るロウ轟き魔女でんでん』(2021)においても展開されていた。しかし、ここで注目したいのは別の焦点である。

この作品は「物語そのもの」への深い関心に下支えされている。大学時代にたまたま受けた宗教学の講義で聞いたことだが、物語・ナラティヴnarrativeとよばれる装置は、単なる虚構を超えた作用をもつことが近年臨床心理や精神医学の世界で注目されているらしい。例えばがんなどの重い病気にかかった患者がしばしば闘病記に自らの生の記録を残すのは、自らの過酷な境遇に向き合い、病いとともに生きていくために必要な物語を紡ぐ行為なのだという。病気を抱えた人ほどの切実さはなくとも、生活や日常の中でままならなさを時系列や原因にそって物語状に整理し、人に話すなどしてすっきりするということはわたしたちがよく経験するものだ。

現実と向き合い時に乗り越えるために、わたしたちは現実とは別の「おはなし」を用意し、それに沿って世界を理解しようとする。この作品に登場する事物にもそうした物語の作用を引き起こす力を持ったものがある。たとえば日記は文字通りその日にあったことを整理して記録するもので、それ自体が物語だ。記者が書く新聞記事もまた、ある種のストーリーを帯びているが、日記が個人の生活をその人自身が物語化して記録するものであるのに対し、新聞記事は巷の事件について書く点で性質が異なる。

本編の中で、座敷童子が自らの起源についてのある悲劇的な真実を知る瞬間が劇のターニングポイントとなる。そこで出会う現実は苛烈だ。この世にいない少年もまた悲劇的な過去を抱えている。彼らは自分の生に対する苛烈な現実を相対化し、向き合うためのナラティヴを求めている。それは自分がここにいる目的であったり、理由であったり、伝えたい想いであったりする。そこには自分自身の生を引き受けるための覚悟と切実さがある。他方で、記者とその姪は彼らの物語に興味を持ち、それを語るためにやってくる。

前述した可視と不可視の問題、相手の存在を認識しているか否かということが、誰かが他者について語ろうとする時に表面化する。見えない他者へと向けられる物語は時に現実以上の苛烈さを帯びることがある。相手の存在の手触りを十分に認識しないまま相手を把握しようとすると、記号的なイメージや偏見が先行し、その人自身の当事者性へ踏み込むことができないまま消費的に見つめてしまう。それは他者の物語を見せるメディアである演劇、そしてその観客にとって無関係ではいられない事柄でもある。

他方で、演劇ではその場にいない誰かの気配を感じることもできる。姿の見えない者を探す場面で、不可視の者に語りかける場面で、わたしたちの視線はそうした可能性へと誘導される。見えないけれど存在していることを、たとえば想像によって確かめようとするとき、わたしたちの語る物語は苛烈さを帯びることをやめる。それは霊視に似ている。

他者へのナラティヴな想像力を、いかに失わずにいられるか。終盤の展開は、演劇という装置自体をその契機として信じるような力強さをまとっている。その可能性は、この作品を観る観客へと手渡されているのだ。

【執筆者プロフィール】
かないりょうすけ
愛知県生まれ。
北海道大学文学部 映像・現代文化論専攻卒業。大学では映画批評・研究を学ぶかたわら、映画研究会に所属。短編映画やショートフィルムなどを制作。コロナ以後はポケット企画の公演の映像化や配信サポート、公演CM制作に関わりながら、アート作品の制作も行う。
現在東京在住。映画学校に在学し映画制作を学んでいる。