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レースクイーンについて

レースクイーンと言って思い浮かべるのは、私と同世代なら岡本夏生さんだろうか。
あのころレースクイーンと言えば、露出度の高いハイレグの水着のようなコスチュームで、ポーズを取っていた。
少なくともテレビや雑誌で見かけるのはそういう姿で、若くて美しい女性であることを武器に?していることに、多少の偏見を持っていた。

先日、富士スピードウェイで開催された自動車レースsuperGTを観戦した。
全く興味のない世界だったが、自動車業界で働く息子がメカニックとして(期間限定で)参加し、家族も招待されたからだ。

初めて見る自動車レース。
爆音とスピードに驚き、最初はちゃんと見ることが出来なかった。

ドライバーはもちろん、メカニックも命をかけて戦っているのかと思うと、漠然としたオバケのような不安に包まれ、お昼の豪華なお弁当さえ全く喉を通らなかった。

観客は別にして、自動車レースは男の世界。
ドライバーもメカニックもほとんどが男性だ。

緑のランプが点灯し、決勝のスタートが切られた。
どうか全車が無事完走できますように。
気づくと胸の前で手をギュッと組んでいた。

接触からのマシンの破損、単独のスピンやパンクなど、アクシデントが起きる。
そんな中を、最大のパフォーマンスで走り切った者が勝者になれる。

以前は深夜のF1を見たこともあったけれど、あんなにもヒリヒリした緊張感と痛みを感じるものだとは、今回肌で感じてわかった。

レースの前のピットビューイングや、レース後に勢揃いしたマシンの横で、華やかなコスチュームのレースクイーンがポーズを取っている。

そうか、あのどうしようもないほど殺伐とした世界には、あの笑顔が必要だったのか。

中継のモニターを見ながら目を潤ませるクイーンらを、以前の私なら冷めた目で見ていただろう。
本当は自分の可愛さが一番だいじなんだよね、なんて。

でも、そうじゃないことも感じた。
彼女たちは、自分の美しさも含めてその持てる力で立っている。
その人にはその人に合った役割があるんだと思った。

最近は日本開催がないので知らなかったが、F1のグリッドガールが廃止されたと知った。
私の考えは、女は男の添え物的?女性蔑視に繋がっているのだろうか。
我が子よりもさらに若い子たちに、ばあば目線なのかもしれない。
(ついでにばあばとしては、おへそ出したらイカンと言いたかったが)


でもあの笑顔には、ふっとこちらも和む力があった。
それを感じた今回のレース観戦だった。


ちなみに、初音ミクのチームのレースクイーンは、ほぼ初音ミクだった。


※この記事は、ジェンダー平等やルッキズムについての意見ではなく、私がレースクイーンについて持っていたイメージと、実際に見て感じたことを書いたものです。

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