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晴旅雨筆(エッセイ)

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これまでの人生で書き散らしてきたノートの切れ端をちぎれ絵のように張り付けたエッセイ。本を読み、山に登り、酒を呑み、街を歩く。
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#常識

父を語れば [1/3] (エッセイ)

4年前に92歳で亡くなるまで父が暮らしていた隣家を取り壊すことになり、遺品を整理していたら、膨大な量の日記がありました。 古いものは彼が寄宿生活に入った13歳からで、中には「闘病日誌」と題された20代のノートも混じっていました。 定年退職後に母とふたり旅した記録を、写真と共に克明に綴る「旅日記シリーズ」もありました。 先月の「母の日」から3回に渡り、思い出を「母を語れば」と題して連載しました。 個人的な忘備録でもあり、果たしてnote読者の方々の興味を引くだろうかと心配で

おそらくは高価なのだろうけどお金さえ出せば誰でも手に入れることができるものを見せられた時に《オトナの反応》ができない体質 (エッセイ)

会社勤めをしていた頃、食堂でたまたま隣に座ったエライ人が、何の脈絡もなく、 「これ、ずっと欲しかったんだけど、ついに買っちゃった」 と言って、ジャケットの右腕をめくったことがありました。 ── そこには、銀色に輝く腕時計が。 「はあ……」 ── たぶん、高価なブランド品だろう。 「……それは……」 エライ人は、少し照れたように言った。 「***の###。……ついに買っちゃった」 高級ブランド名《***》ぐらいは私も知っていた。 でも、おそらくその中でも上位に位置するのだ

「彼は《眠れる獅子》と呼ばれていました ── そして、とうとう、眠ったまま卒業していきました」 (エッセイ・披露宴スピーチ後編)

私に結婚披露宴での来賓スピーチを依頼しておきながら、《危険人物》に頼んだことを後悔し始め、前夜遅くに電話をよこし、 「明日はくれぐれも《常識》をわきまえてくださいね」 と釘を刺してきた「往生際の悪い」新郎の話です。 披露宴当日、東京の会場に出かけました。 バブル景気が始まるのはその1年後ぐらいですが、一流ホテルの中規模のホールを会場とする、超豪華な披露宴でした。 新郎の所属した研究室教授A先生の主賓スピーチに始まり、新婦側の主賓、新郎の会社上司、友人、……と挨拶が続いてい

来賓スピーチを頼まれた結婚披露宴前夜に新郎から《釘刺し》電話「明日はくれぐれも《常識》をわきまえてくださいね」 (エッセイ・披露宴スピーチ前編)

娘から、彼女の結婚披露宴で私が問題発言(問題行動?)をやらかすのではないかと警戒されていたことを記事(↓)の末尾に書きました。 彼女はかねてから父親のことを《危険人物》視しており、中学・高校の頃から、 「将来、結婚したい相手ができても、お父さんには会わせない」 「お父さんは結婚式には呼ばない」 と断言していました ── しくしく。 一応、式には呼んでもらえたので、当時と比べて、 ➀ 彼女が《寛容》になった。 ➁ 私の《社会性が向上》した。 のいずれかでしょう。 私を《危険

母を語れば [2/3] (エッセイ)

母の日に書いた忘備録(↓)への追加記事です。 高校受験の時、特進クラスを新設する高校からのオファーに対して、 「自分のことは自分で決めなさい」 と母から判断を一任され、 《1万円とリスクを取るか、否か》 で悩んだ話を書きました。 この、 《自分のことは自分で決める》 に加え、それに付随した、 《判断結果により節約できた金は、判断を行った人間が成果として受け取る》 は、なんとなく、ではありますが、母がらみで《暗黙ルール化》されたようなところがありました。 2歳上の姉は、