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晴旅雨筆(エッセイ)

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これまでの人生で書き散らしてきたノートの切れ端をちぎれ絵のように張り付けたエッセイ。本を読み、山に登り、酒を呑み、街を歩く。
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2021年10月の記事一覧

誰かの「あったらいいな!」「こんなの欲しい!」は、誰かが実現する (エッセイ)

「再勉生活」中に研究室の同僚だった友人が、日本で工業高専の先生に就任し、この先生から2時間×2日がかりの「特別講義」を頼まれました。 これも、かなり前のことです。 学校で講義をするのは初めての経験だったので、なかなかうまく行かず、一方的な知識の伝達は、学生たちを退屈させただけでした。 翌年も頼まれたので、内容を見直し、知識の伝達に使う時間を半減させて、以下ふたつの「KAIZEN」を加えました。 ➀ 講義内容の材料を使った電子部品やデバイスを回覧して実演する、という《大道

朝起きて鏡を見たら、眉と髭が「《羊》になってる!」 (エッセイ)

「(アフガニスタンとの)密輸はやめよう」 カシュガルの大通り上空に翻るスローガンについて、35年前のウイグルの旅の想い出を書きました。 同じその旅の中に、今も想う《悪夢》があります。 ラム肉を食べながら生ビールを飲む時は、「つまみ話」に語りますが、なかなか信じてもらえません。 ウイグルでは、どの町でも、四角いイスラムの帽子をかぶったオジサンが道端で炭火を熾し、羊肉の串焼きを売っていました。気の利いた《店》には瓶ビールも置いてある。 ツアー一行の中で気のあった何人かとでかけ

「密輸はやめよう」カシュガルの大通りにはためく横断幕に書かれたスローガンを、「中国ータリバン」関連ニュースで想い出す (エッセイ)

昨日のニュース(↓)で、遠い記憶がよみがえりました。 中国は新疆ウイグル自治区を介してアフガニスタンと国境を接している。 35年前、「カキモノ」がらみで臨時収入があり、GWと勤め先の有給休暇をからめて旅に出ることにした。 それまでの旅で一番印象に残っていたのは、ソ連領中央アジア・キルギス共和国側から登った(といってもハイキング程度)天山山脈北山麓の、どこまでも続く《天然お花畑》の美しさだった。 それ以来、 (いつか、天山山脈の南側に行ってみたい) そう思っていた。 当時

未来の校則は《自律の歴史書》 (エッセイ)

 制服は一応あるけれど、私服で通学しても「お咎め」はない、という高校に3年通った。生徒手帳にあったのかどうなのか、「校則」箇所を読んだことのある生徒は身近にいなかった。  ただ、噂では、校則はひとつだけ存在し、「下駄通学禁止」だとのこと。「禁止」と言われるとやりたくなるのは人の常で、ある日、裸足に下駄で通学した。  いつものように遅刻して既に1時間目が始まっていたこともあり、油の塗られた木製の廊下を歩く私の足音は、とてつもなく大きく響き渡り、何事かと教室から顔を出す先生や生徒

先生に「先生」と呼ばれた学生 (エッセイ)

2年前の今月、工学部(卒論研究)と大学院(修士論文)で計3年間、担当教授としてお世話になった恩師が亡くなった。 先生はクリスチャンで、真面目で穏やかな人だった。学科の他の教授のように、権力争いをしたり、高圧的だったりすることが皆無だった。 修士課程進学と同時に結婚した僕は、その専攻でただひとりの既婚学生だった。 いわゆる披露宴は行わなかったが、担当教授からは、 「おめでとう。これ、少ないけれど」 とお祝いをいただいた。 そして、 「同じ松戸市内だからね。……別の面で《応

ホメる先生、ケナす先生 (エッセイ)

昨日、《芸風》がまったく異なる《物語》を投稿しました。 それもそのはず、「こま犬物語」は、私が中学に入学間もない頃に書いた(というか、書かされた)ものなのです。 私の人生の中で、中学生活は結構、暗い時代でした。 クラスの女子にビートルズのレコード(Let It Be)を借りて夢中になったり、浴衣姿の女の子と花火見物に行ったり、フォークギターを弾き始めたり、友人関連はそれなりに楽しかったのですが、先生たちがひどかった。 中学の先生というのはどこもそんなものなのか、たまたま