Stand-Up翻訳『Ayo Edebiri's Nightmare Roommate Scenario』

くく▼話の方向性に関わっていると思われた状況
2017年8月 シャーロッツビル事件
2017年8月19日 ボストン「言論の自由」集会
https://www.cnn.co.jp/usa/35106007.html

『Ayo Edebiri's Nightmare Roommate Scenario』
2019年8月8日放送

【あらすじ:ボストン出身、最近までNY在住の陰キャAyoさん。決してイケてない日々を送る彼女の少しセルフエンパワメント的に考えるお話。】

わたし、ゴージャスなコーカサス系(白色人種の)天国の街、マサチューセッツ州ボストンから来ました。会場の白人のみなさんに挨拶しとこう。またお会いできて光栄です!みなさんほんとわたしにそっくりよ。
それで、過去6年間はニューヨークに住んでました。ほんと学ぶにはすばらしいところで、わたしは自分にまったくスタンダードなものも尊敬の念も持ってないんだ、って。
この3年はCraigslist(コミュニティサイト)で知り合った女性と生活してました。彼女はドッグウォーカー(犬の散歩の代行)をしてる人で、わたしに云ったのは彼女は30歳。48、48歳くらいに思えるなぁって。48歳でした。嘘ついてたの。
でも、でも実際クールだったのよね、だってビルの建物のなかにランドリーがあったのよ。
Ah、で、ある日彼女が週末に両親が来るんだけどいいかな、って云ってきて。
わたしは話のわかるルームメイトだから、Yeah、もちろんいいよ。気を遣わないでって感じで。あの週末は、長さとしては9か月間になったわね、9か月。わたし、彼女の年老いたご両親と9か月間一緒に生活したの。ご両親が毎朝起きて卵をゆでるのが四時、なんとなくやることがないから。
でも、実際ほんとにクールなのよ、感動するわけ、ビルのなかにランドリーがあるよ!って。わたしの20代はじめのころには想像もできなかったんだから。わかるかなぁ、ギリシャの海岸沖にいるみたいだったのよ、
ベスパ(:夕暮れ、ここでは原付)のうしろで目を閉じて、一着のジーンズを履いてる、わたしそれをサイズが四人とも違う四人の友達とシェアしてたの。
その代わりに、得られた時間があって、たとえば地下鉄の斜面を見下ろしていたら、ふと自分がラットをみつめていることに気づいて、ラットもまっすぐこちらを見つめ返しているみたいな。
いまわたし、見ただけでラットのジェンダーをあてられるのよ。あぁ彼は男で、わたしたち次の金曜日はタパス(スペインの小皿料理:インドでは過酷な苦行の意味)だね、みたいな。まぁそんな感じだからね。
今現在はロサンゼルスに住んでます、ほんとにクールなところよね、うん。
Yeah、でもわたし、ちょっとじわじわ嫌な気分になる問題を抱えてて。
わたし、Haimの中へとランニングしにいくことができなくて。ランニング中にわたしはHaimの中で止まれなくて。(:バンド名。LAの音楽一家出身の3姉妹。)
もしHaimについて詳しくないってひとがいるなら、Haimはなんかミディアムくらいの髪の長さの三人の白人の女性のグループで、Urban Outfitters(ブランド名)に産まれて、ある人類史のなかで育ったみたいなひとたちのことね。こんな感じの。【よくわからない動作】
ステージに上がらせてもらってるのって、本当に素晴らしい気分。わたしはトラウマの中毒者だから。この演り方って、でもちょっとトリッキーだよね、だってわたしにはおちびがいるじゃない。ごめんなさい云い方間違えた、わたし(頭に)この成長し続けている巨大アフロがあるのよ。急病診療センターに取り除きにいかなきゃ。
そのあれよ、Yeah、そういう感じのやつ。んふ、Hoo!【MJ】
それで今、いまこのときはほんとにクールな時間だわ、それでも、黒人女性として演らせてもらっているのは。
ローザ・パークスが亡くなったって知ることがすごいインスパイアになる、みたいな感じで。おかげでわたしは、白人のDJたちを演る(とデートする)こともできるわけでしょ、ただ単にバカでかく、もっと白人的なDJになろうって大志を抱いてるようなひとたちと。
両親がこの国に来たおかげで、わたしがケイシー(※1)って呼ばれてる男たちからUTI(尿路感染症)をうつされることができたみたいにね。
これを彼らのための演るっ。わたしのためじゃなく彼らのためってとこ。わたしはintersectional feministで、わたしがロサンゼルスでパンを食べて、ク○みたいにみえることによって、Uh、これぞ抵抗ね。
わたしの両親はフェミニズムに真剣に取り組むってことがなくて、わかる?、キリスト教徒って結構保守的で。はい、ブラックピープルもものを知らないってことがあります、うちの父みたいに。特に彼はそうでした。
おまえら女ときたら不平を云って本を読んで、投票に行き・・、慣れたね。
でも、ご存じの通り、フェミニズムは選択肢(オプション)ではなくて。そして、それは生命線になるものよね、わたしたちがどんな関心であれ社会を良くしていこうとするなら、女性のためだけじゃなく、総じてジェンダーを問わずって風に。
Yeah、たとえばわたしが鏡をみるべきじゃないな、自分を嫌いになっちゃだめだって思うように、家父長制度と男の視線を気にしたりして。
なんていうか、そう、鏡をみることもできるし、そこから両目でまっすぐ自分とにらみ合えもする、それでわたしは自分を憎む。だってひと固まりのク〇だしそれがお似合いだから。わかる?ワンダフルなわたしって風な。
黒人女性をしているにはタフな時ですよね。白人の男でいるのはより一層ひどいものだけど。
違う、そういう感じじゃない。ほんとに冗談は別として、すべてのそういう"彼ら"が、お家に居る時に、団結感をもって云いたくなるのよ、調子はどうブラザー、オーケー?調子どう?わたしから一人ひとり全員の顔がみえてる、ほんと、タフ(な体験)だわ。
白色人種はメディアにキャラ付けされてるのよね、すごい怒りっぽくて、すごく苛々して、violentなやつにね。
わたしあいつらみたいに感じるから、大量の神経不安がどんなものかはわかる。彼らみんなは一番の存在がそうであるようになろうとしてる、愛してる、手助けする、声を聴いてる、とかあらゆる、そんな感じなんでしょ、よくわからないけど。
みんなこの手の競争にさらされてて、「一番かっこいいやつ」になろうって。
これティモシー・シャラメット主演の映画のタイトルです。わたしが書いてるやつ。この死神と戦ってるのが、まさに彼とルーカス・ヘッジでね。7時間あって、24歳がもう16兆円わたしに払ってくれたのよ。クールでしょ。だから今のわたしは金持ち。
ああいう、ナーバスなエネルギーを探すのが、わたしは好きなんだな、それでも。活発なアライシップ(長年差別を受けてきた人への支援)と同じように。
この間、DSW(NYのディスカウントの靴屋)に行ったんです、わたし、靴底をすり減らすことの中毒者だから。
それでそこのフロアで一人の男性が働いていて、まるで唯一の男みたいに、それこそ、こんなに頑張って働く人わたしみたことないってくらいで。
わたしこの男性を、というか、一人ひとりの女性にサービスしようと、駆け回る彼の顔を流れる真珠のような汗をみてました。
これがDSWです、これが靴版のForever21(ブランド名)なんです、みたいなね。
もう戦争だよね、地獄。わたしらみんな叫んでて。なんか、もっと、もっとよって。
わたしはその女たちの進軍に参加して行くことはしなかったんだけど、ただ、どんな気持ちなんだろうって想像してた。彼は駆け回ってて、わたしたちそういうの大好き、Yeah、っていう風な。
そしてここで、店で同じく働いている女性がいて、近寄ってくると、
「ねぇ、みなさん、なにかお手伝いが要ります?なにかお探ししてきますよ?」
で、わたしたちは
「ベイビー、今日は世界女性デーなのよ。いいかしら、昔とは違うの、今このときなの。仕事の手をとめて。リラックスよ、その手にぶらつかせてる靴はもとに戻して、そこの男にわたしたちを手伝わせるの。」
そしたら彼女は、
「すばらしいです。ああいうの好きですよ。ちょっとだけ質問いいです?あの男性、誰ですか?」って。
このお店に彼は勤務してなかった。ただ無料で脚にさわってただけ。
でもわかるでしょ、まさにこのことを言うんですよ、みなさん。
そう、すべてのク○は、なんであれあなたの望む姿をしているかもしれない、って。わたしこの手のことは包み隠さずお知らせしてるよ。
Yeah、ボストンの街で、育つってことはね、わかるでしょ、とても白色人種の場所で、ひそかに人種差別的で。わたしが云いたい意味でとても"彼ら"的で。ちょっと冗長ですいませんね。
それで、やっぱり、多くの時にみんなああいう感じだから、Ah、そう、
本当に関われる仲間がひとりもいない中で育つにはかなりキツいとこよね。すごく孤立して。
それで私は、Yeah、あのバックアップ(ご支援)をよこしてくれてありがとね、って感じ。
でも、まぁ、そこで育ったからとても多くの美しくてパワフルな思い出ができた。
とてもわたしの心に影響していやがるし、みんなとシェアするのが大好きよ、あの日々のことは、もう置き去りにしてやったし、文字通りけっして戻らないけど!

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脚注
※1:ケイシーは、恐らく「アメリカンTOP40」というラジオ番組で知られるケイシー・ケイサム(の虚像)ではないかと思われる。(執筆者として文章だけでみた時Ayoさんのテンポの良さを恐く感じたので、私見含めた固い説明を→)アラブルーツのDJで、そのキャリアと"ギフト"はルーツを切り離したもののように一面的には映る。
ただその虚像そのものより、「構造的な条件付け」と「アイデンティティ」という、どちらも時代とともに不確かさを増してきたものの間で起こる相剋のほうに、焦点をあてたかったのかもしれない。(ただ、どうも中盤からまさにその問題のナーバスさにひっかかりうまくいかなくなってる印象もある。