吃音に関する自問自答①

久しぶりに、吃音について考えたいと思います。
厳密に言えば、吃音について考える上で、どんな論点があるか、というのを考える機会としたいなと思います。

僕は大学院に所属していた頃、自らが吃音だから、というかなり安易な理由で吃音について研究していたのですが、蓋を空けてみれば、いろいろと問いを立てられそうで「めっちゃおもろいやんけ!」と、感動したことを覚えています笑

また、今はその時からかれこれ4年近く時間が経ち、研究の世界からはずっと離れていたものの、吃音についていろいろ考える機会がありました。

論文の中で立てた問い、論文には書いていないけど、今後考えられそうな問いを列挙していきたいと思います。

・吃音症とは何か
・なぜ吃音症になるのか
・吃音は治せるものなのか
・吃音は他者にどんな印象を与えるのか
・吃音は治すべきものなのか、受け容れるべきものなのか(両者が両立する可能性はないか)
・吃音は障害なのか
・吃音は身体的なものなのか、精神的なものなのか
・吃音は見えるものなのか、見えないものなのか
・吃音はどんな場面で障害となるのか
・どもるとき、どんな感覚になるのか
・男性がどもるのと、女性がどもるのとでは何か違うところがあるのか
・吃音の自助団体は何を目指すべきなのか
・吃音であるが故に傷ついた経験、傷つけられた経験とどう向き合っていけばいいのか
・吃音の悩みから解放された吃音者は、渦中で悩んでいる吃音者とどう向き合っていけばいいのか
・吃音は乗り越えなくてはならない課題なのか
・吃音のままでも安心して生きられる社会とはどのようなものなのか

あえて吃音という枠組の中で立てた問いを列挙しましたが、いろんな枠組にこの問いを当てはめられそうだな、と思います。

他にもいろんな問いが立てられそうですが、今僕の中にあるのはこんなところです。なんか、「こんなんもあるよ!」みたいなのがあれば教えて欲しいですね…

今後時間があれば、上の問いについて考えていることを書いていきたいと思います。あくまで自分の考えでしかないので、「私はこう思う」というのがあれば教えて欲しいところです。

せっかくなので、いくつか手短に考えていることを書きます。

・吃音症とは何か
…一番最初の問いにしては、非常に難しい問いです。論文を書いていた時は①どもる頻度が社会的に許容され難いほどに高いこと、②本人がどもるのを恐れて回避行動をとるのが習慣化してしまっている状態、という2点がポイントになっているのかなと思っていましたが、そうじゃないパターンもありそうな気がします。(めっちゃどもってるけど、本人がさほど気にしていない場合はどうなんねん!とか笑)
実は、そもそも定義を考えること自体がナンセンスなのかもしれない…とかも思ったり笑


・なぜ吃音症になるのか
…遺伝とか、学習とか、心理的なストレスとか、いろんな原因論が出ていますが、特に確証のあるものはなく、最終的には人によるのかなあと思います。でも、この「なぜ吃音症になるのか」という問いは、ひとりひとりがストーリーを組み立てやすい問いなのかな、と個人的には思っています。例えば、「自分は〇〇な性格だから吃音なのだ」「あの時にああいうことがあって、それが原因で吃音になったのかもしれない」みたいな感じです。
個人的には、このストーリーを組み立てるという行為自体が大事なのではないか、と考えています。科学的に正しい原因が発見されることもそれはそれで大事なのですが、当事者が自分で過去を振り返り、ストーリーを考え、それと向き合い、間違いに気付いたら都度修正していく…その繰り返しが、実は悩みから解放されることに結びついていくのかもしれないな…と思ったり。


・吃音は治せるものなのか
…これも今の段階では分からないんですよね。諸説あるけど、人間の身体は多様なので、やり方次第であんまりどもらなくなる人もいれば、そうじゃない人もいるって感じなのでしょうね。
ところで、「治す」という表現を用いるのがなんとなくしっくりくるあたり、吃音はやっぱり「治る可能性のある病」であるという考え方が、僕自身の中にも刷り込まれているんだなと思います。実は「治す」以外にも「どもらなくなる」「流暢に話せるようになる」とか、いろんな表現があるんですが、その表現の仕方について考えてみるのも面白いかもしれません。


・吃音は他者にどんな印象を与えるのか
…「案外気にならない」とはよく言われますね笑 どんな印象を与えるかは人にもよるとは思いますが、総じて肯定的に見られることは少ないような気はします。研究していた時に知ったこととしては、「非効率」だとか「ふざけた話し方」みたいな明らかに否定的な反応が目立つ中で、「誠実さ」みたいな肯定的な印象を与えることもあるみたいです。まあこの辺は、話し手の普段の性格とかとも結びつけて考えられそうなところではありますが。あと、日常的に見られるのは「オタク的な話し方」の典型例でよく使われていたりとかしますね。
他者に与える印象は、社会と吃音を関連付けて考える上で重要なポイントになると思います。当事者の声も気になる反面、吃音者の身近な他者の声もいろいろと聞いてみたいところではありますね。

・吃音は治すべきものなのか、受け容れるべきものなのか(両者が両立する可能性はないか)
…吃音界隈の中で真っ先に議論に上がるのがこの問いですね。正直、この問いについては「個人の自由」と長らく考えており、今でもそう思うのですが、「個人の自由」を語る上で、いろいろと注意しなくてはならないことがあります。
この問題を考える上で何に注意しなくてはならないのか…それはまた次回に回させてください笑
(頭が疲れてきました笑)

今回はこんなところにしておいて、残りの問いについても、追々書いていきたいと思います。
何か「これも考えてほしい」とか、「自分はこんな風に思う」みたいなのがあれば、遠慮なくご連絡ください!

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