見出し画像

戦争の終わらせかた:ウェストファリア条約締結におけるヴェネチア共和国の役割

三十年戦争はヨーロッパで行われた戦争の中で、最も凄惨なものの一つである。神聖ローマ帝国内での宗教的対立を発端に始まったこの大戦争は、宗教的対立と各君主たちの利害関係により、オランダ、スウェーデン、スペイン、イングランド、オスマンなどといった国家の参戦を招き、最終的に三十年の年月と、約400-1200万人の犠牲者を出した。この戦争の主戦場となったドイツでは多い試算によると人口の約20%が命を落とすこととなった。

この凄惨な戦争に終止符を打ったウェストファリア条約は、国際法の萌芽とされる。1642年のの予備条約締結に始まり、1644年に本条約締結に向けた会議が始まり、1648年に締結されたこの条約を結ぶため、ヨーロッパ各地から君主たちが集まり、和睦の内容を協議した。

この大会議において、仲裁者の座は、二人の人間に委ねられた。一人は教皇庁より派遣され、後に教皇、アレクサンデル七世であるファビオ・キージであった。そしてもう一人こそがこの度の主役、ヴェネツィア共和国の全権大使、アルヴィーゼ・コンタリーニ(Alvise Contarini)であった。

Anselm van HulleによるAlvise Contariniの肖像。作年不明だが、van Hulleがウェストファリア条約会議に帯同し会議参加者の肖像を複数残していることを踏まえるに、会議期間中に作成されたものであると考えられる。 via Wikisource

アルヴィーゼは共和国の名門コンタリーニ家の嫡子にてオランダ共和国、イングランド王国、フランス王国、教皇庁、そしてオスマン帝国への赴任経験があった。豊富な経験と各国の要人との関わり持つ彼は、今回の会議の仲裁者に相応しい人間であった。

アルヴィーゼの仲裁者としての重要性は、もう一方の仲裁者の問題により、更に強調される。教皇庁を代表するキージ枢機卿は各国のプロテスタント君主との交渉を異端とは対話せずとの姿勢にて拒絶し、また、フランスのリシュリュー公が政策的に教皇庁を阻害していたこと、ならびにカトリック国であるフランスの枢機卿であるマゼラン(Jules Mazarin)とキージが個人的に仲が悪かった、仲裁者として機能していなかった。結果、ほとんどの外交チャンネルは、キージではなく、アルヴィーゼを通じてやり取りされることとなった。

そこで、アルヴィーゼ・コンタリーニのある種、最大の偉業が活きることとなった。ヴェネツィア共和国の外交官は習わしとして、共和国に対し外交活動の日報を送ることとなっている。コンタリーニはそのしきたりに従い、会議に関する全ての報告を本国にあげていた。ウェストファリア条約とその後に関するものは1643年7月31日から1650年2月22日の日付にて記述され、ヴェネツィア共和国公文書館(Archivio di Stato, Venice)で11のフォルダー内に完全な形にて現存している。アルヴィーゼは日報のみならず、他外交官とのやり取りの手紙なども本国へ送付し、これらもアーカイブに同梱されている。そのため、アルヴィーゼの外交は、ほぼ完全な形にて記録されており、コンタリーニならびにヴェネツィアの役割を再現・再認識することが可能となっている。

三十年戦争とヨーロッパ世界とヴェネツィア

三十年戦争の血で血を洗う闘争は、互いの怨恨を募り、当事者間の交渉を事実上、不可能とした。しかしながら、戦争は泥沼化する一方で、少なくとも近い将来、どちらかの陣営がどちらかの陣営に勝利し、条約を一方的に押し付ける、といった形での終結は見込めなかった。他方、三十年、長きによる徹底的な破壊は、多くの君主たちに流石にそろそろ平和が必要ではないのだろうかと思わせ始めていた。歴史的には、このような状況になると、宗教勢力の仲介による平和が行われていた。中世より世俗君主間の紛争の歴史的な仲裁者の座はより上位の君主が努めており、最上位の君主、すなわち国王と皇帝間の闘争の場合のみ、教皇がそれらの仲裁を行うシステムとなっていた。しかし、宗教改革は教皇の宗教的権威を認めない一派のヨーロッパ世界での存在を生み、その結果の三十年戦争は教皇がもはや仲裁者たり得ないことを意味した。

伝統的価値観の崩壊により、新しい平和の樹立のメソッドを一から模索する必要があった。教皇による仲裁という方法は、第三者の仲裁による平和という方法論として、少なくとも機能しそうに思え、当時の君主・宰相・外交官たちはこれをベースに、新しいメソッドの立案にかかった。しかし、その第三者を誰にするかという点にて、議論の余地があった。そして、この時点で、次の四百年間において議論される論点が既に認識されていた。それは第三者を選ぶ際のドクトリンとして、仲裁国に求めるべきは可能な限りの中立性か、もしくは条約の強制的な履行の遂行能力か、という議論である。三十年戦争の場合において、前者の候補がヴェネツィアであり、後者の候補は、イングランド王国であった。二つの論には共に利点と欠点があった。前者を有利とする論においては、少なくとも最も中立的な仲裁国による提案は、最も互いが同意しやすいラインにて提案されるであろうと考えられる為、紛争当事者全員の承認を最も得やすいという論である。一方、これを後者の論の賛同者たちは、最も中立的な仲裁ですらもしその提案が不利であると感じられたら条約締結をしないであろうし、紛争当事者たちはどのような状況でも紛争を再開するという手札を持っている以上、必要なのは平和の強制力であると解いた。一方、前者の立場を取るものたちはこれらに対し、強制力がある仲裁者は多くの場合、実行力がある故に、戦争にかなり近い、準当事者のような立場であり、紛争当事者たちの利益ではなく、自己利益の追求にはしる可能性が高く、それでは条約締結へ至れない、と反論した。互いによる互いへの反論により、論は円環を成したが、それでも戦争を終わらせるためには、仲裁者を選ぶ必要があった。最終的にフランス宰相であるリシュリュー公は、ヴェネツィアに仲裁国としての介入を依頼し、ヴェネツィアはこれを承諾。そこからヴェネツィアは皇帝、スウェーデンならびにプロテスタント諸侯へ仲裁国としてヴェネツィアを受け入れるかどうかを打診、これらの承諾を受け、仲裁国としての任を受けた。

ヴェネツィアが最終的に仲裁国として受け入れられたのには幾つか理由がある。長年ほぼ全当事者と取引・外交を続けていた為、ヴェネツィアの中立性が全当事者感である程度の信頼を持たれていたこと、イングランド国王ジェームス一世ならびに皇太子チャールズが大陸にある種の野心を描いていることは明白であった為、各国が警戒したこと、1637年頃より仲裁の打診をしていた為、その継続した努力が評価されたこと、などあるが、なによりも、オスマン帝国との戦争での支援を欲するヴェネツィアは、当事者以外で最も西方での戦争の終結を求めているように思われたことが決定的な役割を果たした。当事者たちは戦争が続く中、ミュンスターとオスナブリュックに集まり、交渉のテーブルへ、少なくとも来ることまでは同意した。これが何かを生み出すか、徒労と終わるかは、仲裁者の手腕にかかっていた。

会議におけるヴェネツィアとアルヴィーゼ・コンタリーニ

会議において、ヴェネツィアの仲裁の役割は多岐に渡った。対立するカトリック・プロテスタント陣営のみならず、互いに多くの利害関係を抱えているカトリック陣営内での仲介にも注力を注いだ。また、帝国諸侯と皇帝たち、国王たちを同じテーブルにつかせるのも、一重に彼らの役割であった。この中でも特記するに値するのは三十年戦争でヨーロッパの覇者の地位を確固たるものとしたフランスと、その同盟国、スウェーデン、そして途中より交戦国の関係となったスペインとの関係である。彼らは全て大国であり、自らを勝者である、までは言わなくとも余力を残し、故に有利な交渉権を持つと思える論拠があった。彼らの相手で要求のバランスを持たせることこそが、仲裁国に選ばれたヴェネツィアの使命であった。

それを実現化させるべく選ばれた人間は、共和国の歴史における、最良の外交官の一人であった。オランダ大使は彼を「交渉中毒者のようにずっと交渉ばかりをやっていた」「おそらく人生で交渉以外やってこなかったのだろう」と評した。人生はともかく、事実、会期中、アルヴィーゼ・コンタリーニは交渉しか行わなかった。その上、一切の贈り物を受け取らず、そして、外交官としては特記すべきことに、一切当事者たちと共に食事を取らなかった。ディナーなどへの誘いは全て断っていた。彼はヴェネツィアが何故調停者へ選ばれたのかを熟知しており、その中立性を脅かすことを会期中、一切謹んだ。

敬称一つをとってもそれはデリケートな問題であった。少なくとも、会議の参加者たちは多くの場合自称する称号と、実効支配する称号を持っており、一方他の諸侯たち国王たちはそれらを認めていないことがあった。ある参加者を自称する称号で呼ばなければその者は腹を立てるし、他方、自称の称号で呼べばそれを是としないものたちの反感を生む。一例が1646 年 2 月 7 日の出来事で、コンタリーニはポルトガルのブラガンサ公をポルトガルの国王と呼んだ。この時期、ポルトガルは再独立を目指しており、また、ブラガンサ公がポルトガルを実行支配していることもあり、この呼び名にはある種の根拠はあったおのの、それを独立を認めない立場を取るスペイン外交官の前で行ってしまったのはまずかった。当然のことながらスペインのペニャランダ伯はコンタリーニがポルトガル王と呼んだことに立腹し、抗議を行った。それに対し、コンタリーニは以下の反論を行った。

「仲裁国の義務は君主相互間の提案に言及するだけである」

このような敬称違いにより立腹し、抗議をされたり、というのはこの会議中、多発した。このようなことで腹だてるような君主たちとの交渉を行い続けるのは神経をすり減らすようなことであろうが、それでも、それは些事の部類であった。より困難な問題は、例えば交渉当事者たちが和平交渉中に軍を動員し戦争を行ったりすることや、会議から出ていったりすることであった。そんな中でも、粘り強く交渉した彼の姿を、君主たち認めるようになり、いつしか彼は、会議の中で、最良の外交官とて認識されるようになる。

和平交渉に関し、アルヴィーゼ・コンタリーニは、自身の言葉にて、こう述べている。

「私は、共和国の原則は万人に知られており、それは真に常に普遍的な善と平和に向けられており、それらを今回の調停に持ち込むことによって、皇帝や王家、その他の有力者の唯一の要求がそれを促すことができたことを知り、慰めを受けていると述べた。これらの要求に従うことで、私の任務は一点に絞られた。それは、共和国にふさわしい誠意を持って、情熱や利害を持たずに調停を行い、キリスト教国に平和が回復するのを見たいという単純な願いに基づき、このような仕事が意味するすべての信頼を共有することであった。私は私に対して開かれた戸の数に比例して多くの友を得た。彼らを私の能力によって欺くことを残念に思うが、彼らが私の誠実さに失望することは決してないだろう。」

 Alvise Contarini, letter of 27 November 1643

コンタリーニの尽力もあり、最終的に、和平交渉はまとまることになる。

結びに:平和への願い

『和平交渉においてスウェーデンは、過度な要求を皇帝に突き付けたが、クリスティーナ女王はキリスト教世界の平和と安寧のために皇帝に迫って新教徒の権益を拡げさせた。引き替えに女王は、スウェーデンの膨大な要求を引き下げ寛大な譲歩を行った。この譲歩によって和平交渉は進み、皇帝が和平条約への署名を決断した』

歴史書にて短く書かれるこの最後の交渉の裏には、仲裁者たちの努力が塵のように積もっているだろう。ここで、ウェストファリア条約によってもたらされた平和がヴェネツィア共和国、もしくはアルヴィーゼ個人の業績である、という主張を行うつもりはない。しかしながら、ウェストファリア条約の締結を可能としたのは、何よりも各国君主や利害関係者たちの互いによる妥協の意思であった。そのことを考えると、ある種、国際法という枠組み自体が、ヴェネツィア共和国と特殊とアルヴィーゼという個人によって成し遂げられた事象を、一般化し、法体系として再現可能なものにしたものと言うことも可能であろう。

ウェストファリア条約が結ばれるとアルヴィーゼ・コンタリーニはすぐさまウェストファリア条約の事後会議へ駆り出されることとなる。彼の参加が要請されたものはスペイン・フランス間のものと、ポーランド・スウェーデン間のものがあったが、彼はまず、スペイン・フランス間のものに参加した。しかし、五年間の尽力の結果、彼の体力は付きかけていた。条約の締結が行われる前に、彼は健康上の理由にてヴェネツィアへの帰還を余儀なくされた。彼がヴェネツィアに戻ると、十人評議会は彼を共和国の公認歴史家に任命し、彼へ共和国の歴史、ならびに自伝の編算を命じた。人生を通じ、直接的に、また間接的に共和国に尽くした彼であったが、今回ばかりは、新しい任は重すぎた。事後会議も含め、七年間にも渡りヨーロッパの平和に尽力したコンタリーニは、1651年3月11日に亡くなった。一人の平和を目指した人間の、人生の終わりであった。

Alvise Contarini, 1653, Madonna dell'Orto "Cappella Contarini" 彼の名誉をたたえ、死後、ヴェネツィア共和国はアルヴィーゼ・コンタリーニ像の彫像を命じる。今、彼は、ドゥーチェを勤め上げた他のコンタリーニたちと共にヴェネツィアのMadonna dell'Orto内のコンタリーニ・チャペルにて並んでいる姿を見ることができる。via Wikisource

底本: BUSSI, L. (1999). "The growth of international law and the mediation of the Republic of Venice in the Peace of Westphalia" Parliaments, Estates and Representation, 19(1), 73–87.


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?