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翻訳記事:『オーストラリアの勝利(The Australian Victories in France in 1918)』第一章、著:John Monash

歴史とは、相互に接続されたもので、ある事象やある行動は必ず、なにか他の事象を引き起こす。最も有名なこの事象は、フェルディナンド皇太子の暗殺が大戦争を引き起こした物だが、この戦争には、他にも同様の事例が満ち溢れている。

今回主題とするのは、そのような事例の一つである。かつて紹介したように、Hubert Goughはドイツ軍春季攻勢に際し、英第五軍によるSommeセクターの防衛を失敗した為、解任されることとなった。Haigは壊滅しつつあった第五軍の立て直しの為に、当時オーストラリア軍団(Australian Corps)の軍団長であったWilliam Birdwood大将を新たなる司令官に任命する。これは、玉突き的に、オーストラリア軍団の軍団長が空白となることを意味した。Birdwood自身の推薦の元、その地位は、当時、豪第三師団長であったジョン・モナシュ中将(John Monash)により置き換えされることとなった。

彼は、一次大戦の最良の将軍の一人と考えられている。

本書はジョン・モナシュ本人による、彼のオーストラリア軍団任命前後から、終戦までを扱った自伝であり、本稿にて訳した一章は、正しく第五軍の敗走により開いた穴が如何様にして埋められたかを描く。

訳注:特に記載のない場合、第◯師団はオーストラリア師団を意味し、英、独、仏、加などの師団はそれらの国籍あるいは識別子をつけるものとする。また、第◯軍団、第◯軍に関しては英国のものとする。

第一章:ソンムへの帰還

1918年の初頭、オーストラリア軍団は第一、第二、第三、第五師団から構成されており、第四師団はCambraiの戦いの延長戦に協力するために遥か南に移送されていた。 このとき、軍団は、フランドル地方の前線の一部の防御を担当していた。この戦線は、数年にも及ぶ戦争の間に、我らが師団たちにとって馴染みのあるものとなり、Lys川のArmentièresから北へ延びており、 Messinesの稜線の南半分を含むまでに至っていた。

こここそがまさしく、1917年の6月にニュージーランド人と協力して我が第三師団が占領したまさにその地域であった。その中心の向かいには、依然として敵の手にあるWarnetonがあった。 軍団担当戦域の最北端にある起伏のある小さな地域を除き、この地域は想像を絶するほどの破壊に見舞われており、悲惨なほど平らに成されていた。長きにわたる前線の塹壕はLys川の新水が満ちる度に腰まで水に浸かることとなり、我々の塹壕網の大部分は接続された液化した泥の運河でしかなかった。

しかし、この不快な地域は、英仏海峡港の間の高地を狙う敵が、Warnetonの方向から進軍する際、最も明白な進入路となった。 そのため、戦術的になんら利益をもたらさないこの泥まみれの平地を、Messines、Kemmel、六三高地、 Mont des Cats、Casselなどの重要な高地の保持のため、強固に守ることが不可欠であった。

オーストラリア軍がこの地域を占領した前年の夏から初秋にかけての戦闘中、この地域は乾燥しており、移動には適しており、前線の兵たちにとっても適度に快適であった。今やそこは水に浸かり、しばし氷に閉ざされ、荒れ果てており、居住に適していなかった。1917年8月から10月までの貴重な乾燥した天候の数か月間は、第二アンザック軍団がこの地を占領した後、それらと交代した師団が防御を完璧にするための包括的な作業を行うことに費やされた。とはいえ、これらの作業の徹底っぷりを見せる機会は訪れなかった。そして、年度の最悪の季節が近づくにつれ、1918年初頭にドイツ軍が大規模な攻勢を行う予兆を見せていた為、可能な限りの抵抗ができるよう防衛設備を補強する事が求められた。そして、オーストラリア軍団こそが、この補強に応じることとなった。胸が張り裂けるような労働が、必然的に夜間において、毎週のように続く事となった。平地の排水、何エーカーもの鉄条網たち、数百もの特火点の構築、コンクリートに囲まれた機関銃陣地の建設。塹壕は掘られなければなかったが、(訳注:湿地であった為)それらはただちに粗絞りか鉄板で覆わなければ、側面から崩れていった。塹壕内の連絡路網も修復する必要があり、塹壕の駐屯兵たちが居住できるような乾燥した地下居住区の建設も試みられたが、これらは無駄に終わった。

これらの準備の単調さは、時折行われる、何れかの前線師団による情報収集のための敵軍への襲撃においてのみ中断された。しかも後に、これらの準備はオーストラリア人たちがこの地を後にし、再びSommeで戦うこととなった際に、この取り組みがすべて無駄だったことが判明することとなった。軍団の前線は2個師団により保持され、1個師団が支援、そして1個師団が後方で休むという形をとり、塹壕配置のローテーションは、各師団、約6週間であった。この時、私自身はまだ、18か月前にイギリスで組織し訓練を行った、第三師団を指揮していた。この師団はSommmeに展開したことはなかったが、1917年中にフランドル地方で発生した数多くの戦闘に参加していた。したがって、1918年3月末の嵐のような時勢までの間、私の関心は主に第三師団に関することに集中することとなった。また、非常に短期間ではあったが、WilliamBirdwood卿が一時的に不在の間、私は軍団を指揮する栄誉に預かった。

我々は手に入る限りの情報から、敵は1月から2月にかけて、大量の軍事物資をロシアから西部戦線に移送するのに忙しかったという必然的な結論に至った。気配を読むことができる者は、敵が春に大規模な攻撃を計画していることに一切疑問も抱かなかった。唯一存在した疑問は、敵ががどこを攻撃するかということと、そしてそれはどのような戦術か、というものであった。

従って、責任感に満ちたオーストラリアの司令官は皆、数カ月間、これらの問題に熱心に取り組み、頑強な防衛と防御的攻撃のドクトリンを策定し、このような時期、このような環境下で可能な限り、麾下の兵たちがこれらの問題について予見を得られるようにした。連続した陣地における防衛の原則、歩兵と砲兵の火力の急速な発達、機関銃の正しい配備方法、後退時の戦術、長期の行軍と急速な移動に最適な装備の問題などが、公式および非公式の将校会議で議論され、解決された。

これらの議論は実を結ぶこととなった。大いなる困難が訪れ、オーストラリア軍の師団たちが展開された際に実際に与えられる可能性のある役割において直面しうる問題と、これらの議論は直結していると考えられており、そして実際にそうであった。この為、オーストラリアの兵たちは新たなる任務に直面した際、見知らぬ任務であるのにも関わらず一切の準備不足でも、また、まったくの訓練を受けていないという状況ではなかった。
第三師団がそれまで16カ月間に渡って過ごしてきたフランドルとベルギーの泥沼地帯に最後の別れを告げたのは3月8日のことだったが、これは決して名残惜しいわけではなかった。師団は十分な休息を取るために、ブローニュからほど近いNielles-lez-Blequinの快適な田園地帯へ後送された。この地にて休息を過ごしていた3月21日、オーストラリア軍が大きな役割を果たすことになる大舞台の幕が切って落とされた。

その後何週間にも渡り、混雑して大変な日々が続いた為、この時期の語り口は必然的に私の個人的な物語の形をとらなければならなくなる。出来事が次から次へと非常に急速に訪れ、議題の中心は場所から場所へ移動し、全てが時間ごとに非常に急速に変化した。豊富な資料を使い、自由に執筆できるような歴史家でもない私が引き受けられる叙述の形があるとすれば、それは私個人の経験の記録という形しかなかったのだ。

3月21日、ドイツ軍は英第五軍の前線を攻撃した。この時、我々の最高司令部が有していた情報は、その公表が兵たちの精神を高揚させ類のものではなかった為、我々のような即応ではない予備の部隊は情報を常に信頼性の低い噂や、危機感を和らげる為、厳しく検閲されたコミュニケに依存せざるを得なかった。これらの情報源からは、何も確たる事はわからなかったが、少なくとも事態が悪化していることと、St.Quentin近くに存在した我々の前線だった場所のはるか後方にて戦闘が行われているということだけはわかった。

このヒントにより、少なくとも私の師団が長期間予備に置かれていることはないだろうなという期待を正当化するのに十分であった。そして同日、全部隊に対し、移動の準備、不要な荷物の廃棄、移動が必要な物資の搭載、そして、数時間前の通告に備えて行軍に備えて待機するよう指示が出た。

3月22日に移動命令が出始めた。師団は誰もが望んでいたように南のSommeに向かうのではなく、東へ移動であった。つまりフランドルに戻るのだ。移動が正式に開始した矢先、移動を中止して新たな命令を待つよう命令が出たため、3月24日までに師団は原位置にて拘束されることとなった。この時、我々はDoullensにて命令を待つことになっていた為、先遣部隊は各種命令書などの作成任務のため、翌朝トラックにてDoullensへと発つことになった。その後、師団がオーストラリア軍団からGHQ予備の英第十軍団に移管されるという詳細な指示が届いた。その指示にて師団全体は翌日の夜、下馬部隊は鉄道で、砲兵と他の騎馬部隊は通常の行軍にて、Doullensへ移動するよう指示された。[原文注:この章の残りの部分で言及される地名のほとんどは、図AまたはJに掲載されている。]

状況が流動的に推移しているが故に、その変動に同調し最高司令部の計画が急速に変更されることは明らかであったが、それを確認する手段を私は持ち得ていなかった。ここから昼も夜も精力的な活動が続くこととなった。3つの異なる鉄道駅で3個の歩兵旅団と工兵を乗車させ、騎馬部隊を陸路での長い行軍を行わせ、全ての戦闘部隊へ弾薬、食料、水が適切に行き渡っている状態にし、即時展開が可能であるよう準備を行わせた。私の幕僚たちは課せられた厳しい要求に有能に対応し、この準備作業はすべて効率的に行われた。

乗車は25日の深夜に始まり、一晩中続いた。26日の夜明け、全員が正しく移動していることを確認した後、第十軍団司令部を見つけ、命令を得る為、私は自動車で南に向かった。しかし、午前中を費やした探索は、結局無駄に終わってしまった。そこで私は初めて、その後、24時間に渡り私が直面することになる、広範囲に渡る混乱と、その理由を知ることとなった。

3年以上にわたる塹壕戦により、軍は司令部が決まった場所に存在し、相互通信用の回線網が確立されている種類の戦闘に慣れてしまったのだ。ドイツ軍の強力な猛攻撃と、我々の長すぎる戦線の結果、この複雑化した組織は、突如、全体として混乱することになった。旅団、師団、そして軍団に至るまで、司令部は定位置にあらず、そして彼らへの連絡を可能とする確実な電信、通信回線が途絶してしまった。指揮官たちが個人の裁量にて連絡を取ろうとした場合、それまで数分かかっていたものが、突如数時間かかるようになってしまった。

この広範に渡る混乱は、特に後退する部隊に深刻に作用した。それは、平行して後退する軍団、師団との協調ができなくなったためである。たとえ、ドイツ軍の熾烈な攻撃と、第五軍の不適切な防御陣地により、多少の苦戦は強いられたかもしれないにせよ、後退が長距離かつ長時間に渡ったのはこれらの混乱が主要なものであると私は確信している。

AlbertとSt.Quentinの間にはいくつかの防衛線が存在し、その地形的特徴や、塹壕、鉄条網の存在により、これらは抵抗を行うのに非常に適していた。しかし、戦線の大部分において、これらの抵抗は行われなかった。なぜなら、これらの偶発的な抵抗の試みを全体として協調させることができなかったからである。私が知るところ、幾つかの歩兵旅団や砲兵旅団は、十分に抵抗を行える状況であったにもかかわらず、側面の部隊が撤退した為、後退を続けざるを得なくなってしまった。

私は、まず、第十軍団がいるとされたHautcloqueにて彼らを捜したが、彼らはそこにいなかった。次に、彼らが前夜いたと言われているFreventへ向かったが、彼らは既に出発した後であった。絶望した私は、Doullensへ戻ろうと考え、私の師団が翌日の夜、きちんと下車し、野営ができるよう準備をし、そこでさらなる命令を待つことにした。また、私は私の所在と、私が未だ命令を受けざる状態である事をGHQへ報告する為、伝令を送り出した。

Doullensに到着すると、私は形容詞がたい混乱の現場に出くわすことになった。住民は一斉に町から避難する準備をする一方で、疲れ果てた空腹の兵士たちが東から、南東からなだれ込んでいた。ドイツ騎兵隊が彼らを追ってきたという興奮した話も飛び交っており、幾多ものこのような報告を受け、私は、私の師団の下車を守り、何らかの抵抗を行えるよう準備を行った。

このようなストレスと不安の真っ只中に、私は幸運に恵まれた。私がDoullensに到着してから30分もしないうちに、、Rosenthal准将と第九旅団の一個大隊を載せた最初の鉄道列車が到着しが到着したのだ。これは前哨線を構築するのに十分な兵力であり、私はすぐさま彼に旅団の主力到着までの間、現有兵力を持ってDoullensの東道路にて防衛線を構築するよう指示を出した。これらの指示を出すと、私はMondicourtに向けて出発した。

また私の出発の直後に、McNicoll准将と彼の第十旅団の第一大隊を乗せた列車が到着した。彼らの到着と時同じくして、ドイツの装甲車がAlbertから道路を通り接近しており、これはDoullensから3マイルの距離まで迫っているとの、噂も届くことになった。この噂は馬鹿馬鹿しい顛末に終わった。この音の元は実のところ、フランスの農耕用車両であり、全力で逃げている際にゴロゴロと音を立てていただけであったことが判明したからだ。McNicollも同様に、Mondicourtの駅を防衛する為、前哨線を張るよう命令された。

これらの出来事が起こっている最中、砂まみれ泥まみれの兵士たちが無限に東から西へと流れていった。McNicollは、非常に直接的な方法にて、何百人もの兵士を集めた。彼は小銃や必須品を失っていない兵士全員を説得し、踏みとどまり、彼が築きつつあった抵抗線へ加わるよう呼びかけたのだ。

一方、私の次の仕事は、司令部を設置するのに適した拠点を見つけることであった。私はできることならば、通信網がまだ生きている場所を拠点に選びたいと考えており、これもまた幸運なことに、Couturelleにある小さな屋敷にてこれを見つけることができた。また、ここで、私は、この屋敷の主人より、この日最初の食事を提供して頂いた。

ここに到着した直後、私はMaclagan少将が付近にいることを知るに至った。これは、即ち、付近にオーストラリア第四師団の少なくとも一部が展開していることを意味、これは暗い見通しの中に、忽然と輝く、太陽の光のような情報であった。報告では、彼はBasseuxにいるとされた為、直接の会談にて今後の協調行動の計画を立てる為、私はそこへ向かうことにした。

BasseuxはDoullensからArrasに向かう主要道路上にあり、後に判明したように、この道路は敵の進軍路に並行して位置した。この道路は私の旅程に渡り、混雑していた。多種多様な部隊に、軍用車両、あらゆる種類の口径の大砲が、数百人の避難民、農耕用ワゴン、手押し車、台車に混じって動いており、荷台には情けないほどの家財道具がぎっしりと積まれていた。このような状況にも関わらず、後退の動きは十分に秩序正しく整然としており、「敗走」という単語から彷彿されるようなものは何もなかった。これらの行軍は、確固たる意志に基づいたもので、それは動かずにはいられないという願望の発露であった。

私がMaclaganを見つけたのは4時くらいのことであった。彼の師団は乗車移動と行軍を繰り返すことで、3日間休むことなく移動し続けていた。彼は私に、東と南東の状況が不明瞭であることと、その為、予想される敵の進撃路に前哨線を展開した事を告げた。彼自身は、(敵が進入したと報告されていた)Hebuterneを奪還するよう命令を受けていた為、第四旅団を派遣する準備をしている最中であった。また、この会議中、敵がそれほど遠くにいないことが明らかになった。私たちが会議をしていた小屋の近くが悲惨な長距離砲撃にさらされたからだ。

できることはさほどなかった為、我々は可能な限り連続的であるように前哨線を南東へ展開し、状況の進展を待つことにした。これらの準備を整えると、私は同じく混雑した道路を戻っていった。戻ると、Couturelleは散発的な敵の砲撃に晒されるようになっていたものの、同時に、師団の主要な参謀たちが到着していることがわかった。

そこで、私は警戒の為、隷下の3つの旅団へ、下車後、集合し、前哨線の展開を行うよう命令を出した。それぞれの集合地点は、第九旅団がPas、第十旅団がAuthie、第十一旅団がCouinであった。一方、私の砲兵はまだ行軍中であり、約一日の距離にあった。

その夜の9時頃、私は電話にて第十軍団からの最初の命令を受け取った。その内容は次の通りであった。「参謀がしばらく前に貴殿へ命令書を届けるため出立した。この命令書では貴殿は命令を受けるためCorbieへ直接報告することとされた。しかし、状況が変わったため、報告先はMontignyへと変更された。」

交通渋滞のため移動が遅れ、参謀が到着するまでに1時間近くかかっていたのだ。彼が持っていた命令書にて、私の師団は第十軍団から第七軍団に異動となったことが判明し、また、同命令書では、私はすぐさまCorbieにて直接報告するよう記載されていた。しかし、前述の電話から、第七軍団がCorbieからの撤退を余儀なくされ、Montignyに向かって進んでいることは明らかであった。

これはその日二度目の幸運だった。というのは、上記の電話が参謀を追い越していなかったら、私は間違った目的地に向かって出発してしまっていたはずであり、即ち、私は最も重要な局面にて貴重な時間を無駄にしなければならなかった可能性が非常に高いからだ。また、もしその夜、私が第七軍団司令官のCongreve大将を見つけることができなかったとしたら、私の師団のSomme川への到着は間に合わず、敵のAmiensの占領を阻止できなかったことはほぼ確実に思える。

その夜の10時過ぎ、私は4人の参謀と2人の伝令を伴い、2台の自動車と2台のバイクに乗って、Couturelleを出発した。我々は、真っ暗な暗闇の中、難民で混雑した慣れない道を走っていった。Montignyに到着したのは、真夜中を少し過ぎた頃であった。

それは道端にある人気のないが雰囲気のある屋敷で、Congreve大将はその中にある殺風景なサロンの隅で、参謀長とともに小さなテーブルに座り、ろうそくの明滅する光で地図を見つめていた。屋敷の残りは暗闇に包まれていたが、参謀たちが投げ入れたであろう手荷物の山により廊下は埋め尽くされていた。

ここで、私はCongreve大将は簡潔に要点を述べ、命令を下した。「今日まで、我が軍団はAlbertからBrayまでの戦線を保持していたが、本日の午後4時、戦線が突破された。現在、敵は西進しており、もし明日中にこれらが止められなければ、敵はAmiensを見下ろす高台の全てを占領することだろう。よって、貴公の任務は彼らの進撃路上に展開し、これを阻止することとなる。AncreとSommeの稜線は両翼を収めるのに良い地点であろう。また、貴公は可能な限り東に展開することが求められるものの、私はMéricourt-l'AbbéからSailly-le-Secにかけて、以前使われていた塹壕線が存在していることを知っており、私の記憶が正しければ、これらはまだ良好な状態で存在しているはずである。もし以東への展開が不可能であった場合、これらを使用せよ。」

この時、Maclagan少将が到着した。彼は私と同様に簡潔な命令を受けた。彼は、Ancre川の湾曲部にある高地の支援の為、Albertの西へ展開するものとされた。命令を受けた後、我々は、第七軍団が現在、第三軍の南翼軍団となっており、Somme川の南にある第五軍は事実上消滅していることを知った。一方、フランス軍は南西方向へ退却しており、刻一刻と両者の距離は開いているとされた。Byng大将(訳注:第三軍司令)は、Sommeに位置する第三軍の側面を保持するだけでなく、南からの迂回を防ぐため、あらゆる努力を行っているとされた。また、総司令(訳注:Haig)はこの間隙を埋めるため、翌日になんらかの処置を試みることが示唆された。しかし、この話がされた時、それはすでに3月27日の午前1時のことであり、翌日とは3月28日のことであった。そして、私は、自身の師団から20マイルも離れていた。全ては素早い決断と完璧な実行にかかっていた。幸運だったのは、その場にGHQへの電話回線があったことであり、私は、夜間の内に3つの大型バスの車列をDoullensへ行くよう手配することができた。私は夜明け近くまで参謀らと詳細を検討し、決定した。それらの取り決めが決まると、会議の参加者たちはそれぞれの任務の為、別々の方向へと別れていった。

夜明けを少し過ぎた頃、私は一人の参謀とともに、バスの降車地点であるFranvillersに向かった。そこについた時、まだオーストラリア軍の気配はなく、村は恐怖に見舞われた住民が急いで避難している最中であった。しかし、Ancreの渓谷の向こうにある、遠くの高原では、ドイツ軍の散兵が動いており、勇敢にも彼らの進軍を遅らせようと抵抗する少数のイギリス軍の騎兵がゆっくりと後退する姿を見て取ることができた。

次の1時間は、緊張と期待に満ちた時間であった。しかし、30台の車両から成るバスの車列が北から村に入ってきたとき、私の不安は解消された。これらのバスには第十一旅団の勇敢なオーストラリアが詰められており、これに加え、Cannan准将とその旅団の参謀の一部も運んでいた。ロンドンのバスが、大都市の住民を運ぶのを止めた為、都市民は歩行を強要されることになったものの、これらのバスが戦場で、最も危機的な状況を救うのに役立ったのは、これが初めてのことではなかった。そのほぼ直後に、第十旅団所属の一個大隊を率い、McNicollが到着した。時間と共に、乗合バスの車列が着実に到着してきた。

我々は時間を無駄にせず、部隊を次々と編制し、命令を下していった。彼らは小さなHeillyの村までの険しい曲がりくねった道を下り、そこからAncre川を渡り、前述の防衛線に展開していった。

この時の光景は、戦争全体の中で最も感動的な光景の一つとして、私の記憶に永遠に残るだろう。ベルギーとフランドルで大成功を収めたにも関わらず、「Sommeで戦った」と誇ることができなかったが故に、常に「新参者」と蔑まれてきた、第三師団が、ついにSommeに降り立ち、価値を証明することができるのだ。また、別種の興奮もあった。長いこと、陣地に隠れ、塹壕から攻撃し、ガスにて毒を盛り、宿舎で眠っているところ爆撃してきた敵と、ようやく、対等の立場にて戦いその本領を発揮できるのだ。

いずれにせよ、それは一兵士としての、私、個人の視点に留まるものであった。一方、あのさわやかで晴れた春の朝、眠れぬ夜の疲労にも関わらず、直立し、王の観閲式の精緻さにて行軍する兵たちを見たならば、誰しもが彼がが如何なる攻撃にも怯まないであろうことを確信することができただろう。しかし、他方、彼らの内、誰一人として、彼らこそが敵軍のAmiens占領の試みを頓挫させ、連合軍分断の試みを阻止する張本人になると思ってはいなかったであろう。

正午までには展開は大筋、軌道に乗り、午後4時には、Ancre川とSomme川が形成する三角形と、Méricourt-Sailly-le-Sec線の間で、少なくとも6個大隊を展開したと第七軍団に報告することができた。砲兵は未だ到着して居なかった為、これらは小銃とルイス機関銃で守られた一連の「拠点」へと配置された。第十一旅団はCorbieからBrayまでの主要道路の南側に展開し、第十旅団は道路の北側に留まった、第九旅団は依然、バスから降車中であり、近隣のHeillyにて集結中であった。

これまでのところ、私の前線に対する敵の圧力は深刻ではなく、敵に使用可能な砲兵が殆どないことも自明であった。
一方、我々は一切の友軍に出くわさなかったわけでもなかった。午前中、我が騎兵部隊の一部と、Cummings准将指揮下の1500名ばかりの兵が、前進するドイツ軍の前衛の圧力を受け、ゆっくりと後退していた。この兵は第三軍の様々な部隊の残党からなる混成部隊であった。幾千もの者共がただ逃げ去ったのにも関わらず、流れに逆らい、抗った、彼らのような勇敢な「命知らず」は最大の称賛に値する。最後、彼らは後退を命じられ、我々の前哨線を通り後退していった。そして、我らがオーストラリアの歩兵は、敵と対峙することになった。

我々の展開は、間一髪のところで完了した。その日の午後中、敵は散兵線と小規模な偵察隊を通じ、稜線上に現れ続けた。敵は地面を這って前進し、峡谷を通じ我々に忍び寄ろうと試みたが、それらは全て、我々の応射により阻止され、敵は多くの損害を被った。そして、日暮れが近づくと、彼らは前進の継続を止めたのであった。

それは文字通り、この地域におけるドイツ軍の大進撃の終わりであった。後に語られるように、敵はその後、何度かAmiensへ到達しようと試みたが、彼らは、一インチも前進しなかった。それどころか、彼らは、私達の眼前にてゆっくりと、しかし着実に後退することを強いられた。

我々の偵察隊は、敵が既にSailly-Laurette、Marett、そしてTreux Woodsの村を占領していたことを暴き出したが、同時に、高原上ではまださほど大きな戦力ではないことも発見した。
防衛線の陣地を完璧なものとすべく、命令が矢継ぎに出された。鉄条網が貼られ、機関銃陣地が構築された。そして夜間に兵たちは、交代にて休みを与えられた。砲兵に騎兵はまだ半日の行軍を残していたが、彼らの指揮官のGrimwade准将は隷下の士官たちと共に事前に前進するよう命令された。彼らはまだ日が暮れるまでに戦場を視察するのに十分な時間帯に到着し、行動の詳細を決定した。夜を通じ、砲兵は次々と到着した。2日間の強行軍の後、人馬共に疲れ果てていたが、士気はこれ以上ないくらい高かった。翌朝には砲兵は活動を始め、姿を晒したあらゆる敵と交戦した。

ここでオーストラリア第四師団の話をしなければならないだろう。彼らはいくつかの意味であまり幸運ではなかった。Hebuterneを奪還した彼の第四旅団は、Hebuterneを巡る重要な作戦に従事することとなり、英第六十二師団隷下として戦場に残されることになった。結果、Maclaganに残されたのは第十二旅団と第十三旅団の2個旅団だけとなった。彼はすでに疲労困憊していた歩兵を更なる行軍によりBasseuxからAlbertの西と南西の高地まで連れて行くよう命令されており、26日にはAlbertも陥落した為、非常に危機的な状況となっていた。

このような状況にも関わらず、この行軍は命令に従って遂行された。これは第十二旅団と第十三旅団の軍隊による忍耐力を証明する驚くべき偉業であった。オーストラリアの2個旅団が即応予備として到着したことにより、前線部隊は鼓舞され、現場指揮官はもう少し粘ろうという気概を持つことができた。彼らの行動が、Albertの状況を安定化させるのに大いに役立ったのは疑いようがなく、彼らの努力は正当化される以上のものであった。彼らの最後の尽力により、Ancre川以南のドイツ軍の進軍は第三師団により阻止されたように、Ancre川以北のドイツ軍の前進も停止することとなった。

そして、わずか4時間の休息の後、Maclaganは第七軍団が彼に割り当てたDernancourtとAlbertの戦線を引き受けた。

これら、迅速な行軍と兵たちの適切な応対の結果、27日の夜までに、オーストラリアの5個旅団はHebuterneからSommeにかけてほぼ連続した強固な防衛線を築いたが、一方、残る一つのオーストラリア旅団、第九旅団、は依然戦線に投入されていなかった。

この時、Somme川以南の状況こそが最も深刻な不安の原因となっていた。フランス軍の北側面は依然、南西への後退を続けており、間隙は広がり続けていた。この間隙は英第一騎兵師団の一部からの援護を受けた、かき集めの部隊により保持されていた。もし敵が西のCorbie、あるいはそこ以西の地点にて渡河することに成功した場合、我らが第三軍の右翼は、迂回攻撃を受ける危機に瀕することになった。

このような状況を踏まえ、その日遅くに行われたCongreve大将との会議の後、私は第九旅団をSomme川沿いにSailly-le-Secから西のAubignyまで展開することを決定した。[原注:Corbieから西に2マイル]この担当は一個旅団に与えるものとしては過剰に長い戦線であったが、既存の橋と閘門にて敵が渡河しようとした場合に、抵抗を行うことができる何らかの処置を行う必要があったのだ。

続く二日間は、多大な労力と長い移動に満ちたものだった。私は、私の北と南にある師団司令部との連絡を確立し、彼らとの協調行動が行えるよう手配、状況と作戦に関して可能な限りの情報を収集し、緊急時に利用可能な他の部隊の数と状況の把握することに努めたのだ。

この時、かの有名な英国騎兵連隊と緊密に連携して戦えたことはオーストラリア軍に特別な喜びをもたらした。また、これらの感情が報われたことは、英第一騎兵師団を指揮したMullens少将からの次の手紙からも推測することができる。かの師団は当時、Somme川とフランス軍の側面の間の間隙を埋めることに全力を尽くしていた。

親愛なるMonashへ

本当ならば、直接お会いし、感謝の言葉を述べようと考えていたのですが、戦線の状況がそれを許してはくれなさそうです。私は、私の師団に寄り添い、心強い支援と助力を与えてくれた、あなた自身、ならびにあなたの砲兵指揮官と、旅団長たちに深い感謝の言葉を述べます。特に、あの3月30日の激戦にて、私達の陣地をボッシュ(訳注:ドイツ兵のスラング)から守り抜く際の戦闘にご助力頂いたことは、非常にありがたいことでした。
また、私はあなたやあなたの士官たちが私に直接会いに来てくださるという礼儀正しさに深い感銘を受け、また、あなた方の我々を助けるために全力つ尽くしたいという思いも心を打たれました。御存知の通り、当時の我々は数奇な運命により集まった集団で、あなたのような気丈な方が我々の左翼に居たことは、私から両翼の心配を消し去るのに十分でした。
あなたが重砲と砲列を私の戦線をも支援できるよう配置してくださったことは、本当にとても役立ち、フン(訳注:フン族、ドイツ兵のスラング)をとても多く殺すのに役立ち、我々多くが感謝することです。
私、ならびに英第一騎兵師団の全員による感謝の意を皆に伝えていただけることを望みます。
このような偉大なる勇猛さを見せた兵たちと共に戦えたことは、私の喜びであり、誇りです。
また、共に戦う機会が訪れることを心より願っています。もし可能ならば、もう少しマシな状況で。

敬具、署名

R.L. Mullens

3月29日の夜、私は戦線を右に向かって前進させ、左翼端がBuireの東にあるAncreにくるようにした。これは2,000ヤード以上の極端な前進で、幾ばくかの抵抗に会い、また、数人の捕虜をとった。これにより、敵は、CorbieからBrayまで主要道路と、高原の頂上に位置する見晴らしの良い貴重な土地を、1マイル以上奪われた。

図A —オーストラリア第三師団の前進— 1918年3月~5月

この頃には敵の砲兵戦力が続々と集結していることが明らかとなり、翌日の午後、敵は2個師団を動員して私の前線全体に強烈な攻撃を加えた。この攻撃は完全に撃退され、敵の損失は少なくとも3,000人死亡と推定された。私の砲兵は視界が開けた状態にて砲撃することができ、これまでの経験の中でこれほどまでに目標に恵まれたことはなかった。

しかし、前日、Somme川とVillers-Bretonneux川の間の状況と、そしてそこからさらに南の状況は絶望的なものになっていた。そして非常に不愉快なことに、崩壊しつつある戦線を補強するために、第九旅団(Rosenthal)を英第六十一師団のに引き渡すよう命じられた。しかし、川岸の防衛を維持する必要性について私が第七軍団司令官に力説した結果、代わりとして、フランドルから移動中のオーストラリア第五師団の内、最初に到着した第十五旅団(Elliott)を与えてくれた。この旅団の引き継ぎは30日までに完了した。

さらにその日は、私の師団司令部が置かれていたFranvillers村への集中砲撃によって特徴付けられた。この砲撃の結果、重大な損害が発生するようなことはなかったものの、参謀らの仕事は妨げられた。また、この出来事をCongreve大将に報告すると、彼は私の師団司令部をSt. Gratienに戻すことを推奨し、そして翌日中に私はそこへの移転を完了させた。

4月4日、敵はSommeの南を大軍で攻撃した。Hamelには、前夜、防衛のために疲弊し損耗したイギリス軍師団が送られていたものの、これが敗走した為、村は失われることとなった。この成功により、敵は104高地の一部に足掛かりを得ることとなった、また、Villers-Bretonneuxの東郊外に到達した。3か月後、オーストラリア軍団はこの地を奪還すべく、努力を費やすこととなる。

敵による我らが槍衾を食いちぎらんとする最後の試みは、4月5日に行われた。この打撃は主に勇敢なオーストラリア第四師団に降りかかった。Dernancourtの戦いは、成功した粘り強い防衛の一例として、軍事史の記録に長く残ることになるだろう。その日、弱体化したオーストラリアの二個旅団に対し、敵は矢継ぎに師団を投入し、Albert周辺の高地を手放させんと試みた。これらの高地を失陥さしめれば、オーストラリア第三師団の後退をも強いることができ、これらを合わせることでAmiensへの道は再度開くことが期待できた。敵は、この事をよく理解していた。

重要な鉄道の中心地であるAmiensに対するドイツ軍の大打撃は受け流された。そして、この時からこの方面への敵の関心は急速に薄れていくことになる。3週間後、敵はVillers-Bretonneuxを経由して目標に到達しようと、再度試みたが、これは数時間で落ち着くこととなる。Sommeの北では、彼の活動は直ぐに静まり返り、両軍の態度は徐々におなじみの塹壕戦の側面を帯びるようになった。際限のない塹壕の構築、複数の防衛線の作成、疲れる塹壕の日常、恒久的な通信網の入念な設置、そして、これらの管理である

オーストラリア第五師団がSommeの南で前線に加わったのは、4月5日のことであった。これにより、第一騎兵師団が担当していた約5,000ヤードの戦線が受け渡せることになり、これにより、我々は側面の河川防御を維持し続ける必要から解放された。この任務は、先に加わった第十五オーストラリア旅団が担当した後、第十四帝国旅団が、そしてその後、第十三オーストラリア旅団(原注:後者は当時グラスゴー傘下/訳注:指揮官がWilliam Glasgowのこと。以前の版ではグラスゴー師団下と誤って記載しておりました。@もなしゅ氏のご指摘に感謝)によって遂行されていた。第九旅団は依然として私の傘下から切り離されたままで、彼らは英第十八師団と英第六十一師団の両方の下で活動した。彼らはVillers-Bretonneuxとフランス軍の北翼であるHangardの間で発生した一連の戦闘に参加し、無謀な局地攻撃と反撃の間で勇敢に戦った。この任務において、第九旅団は、同じくこの地域に到着していた第五オーストラリア旅団(第二オーストラリア師団所属)から勇敢な協力を受けた。彼らはフランドル地方のMessines-Warneton地区の塹壕勤務から解放され、この地へと展開していた。

この期間中、第五師団、並びにこれら2つの別働旅団は、Sommeとフランス軍の側面との間のギャップを埋めるために再編成された第三軍団(Butler)の指揮下にあった。オーストラリア第一師団は第二師団に続き展開する途上にあったが、4月11日、ドイツ軍の新たなる攻勢に対処する為、急遽フランドルへ再配属された。敵の攻撃は留まりを知らないようであったが、Hazebrouckにて食い止められた。この任務はオーストラリア第一師団が最も勇敢に遂行した。彼らは迅速かつ整然とした行軍し、重要な局面での決定的な介入を行った。これは、妹分の師団たちが得ていた評判で、彼ら自身もこの評判を維持することに成功した。

この時、オーストラリア軍団は広く分散していた。オーストラリアの4つの師団は3つの異なる軍団に所属しながら戦っていた。こんな中、オーストラリア軍団司令部がAmiens地域に移転され、隷下の部隊が再びその管理下に集められるという噂が囁やかれ始めた。しかし、これ以上に現実味がある噂もあり、それはRawlinson大将がベルサイユ最高戦争評議会の英国代表の職を辞任し、間もなく再編成された英国第四軍を編成し指揮する予定であるというものであった。[原注:1917年にRawlinson大将がベルサイユに行ったとき、第四軍は消滅し、また、第五軍は1918年の6月まで復活しなかった。]そして、その第四軍は、オーストラリア軍団と第三(イギリス)陸軍軍団よりなるものとされたのだ。

参考文献:
https://gutenberg.net.au/ebooks13/1302421h.html


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