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『浸透戦術』という幻


---1980年5月19日、バージニア州の片隅にあるビルの会議室

この日、ある民間会社が経営するよくあるビルの一室に、少なくない人数の人間が集まっていた。

もしその日、その一室を覗き見る事ができたならば、それは、異様な光景であっただろう。

たとえば、普通の会議室であるのにも関わらず、ビルには空港級の警備がついていたことや、その会議室にいた人間の年齢的バリエーションなど、気になることは色々あっただろう。

そして、もし、軍隊に詳しい人間が見たならば、その一室に集まった内の一人の階級章が、現役アメリカ陸軍大将であることに気づいただろう。

しかし、何よりも異様であったのは、それらの集まった人々が、二人の外国人の老人に対し矢継ぎ早に質問を浴びせていたことだろう。

特に片方の老人はかなりの高齢で、80代も後半、もはや90代近くに見れた。

しかし、この高齢にもかかわらず、老人は質問者のエネルギーに答えるようにはっきりとした声で質問に答え、その答えに質問者たちは更に興奮を覚え、新たなる疑問を老人にぶつけていた。

この二人の名前はそれぞれHermann BalckとFriedrich von Mellenthinと言い、二人は第二次世界大戦で活躍した、ドイツ軍の将軍であった。

そして、当然の事ながら、質問者たちも、只者ではなかった。

彼らはベトナム戦争での敗戦を受け、消耗戦のドクトリンから、機動戦ドクトリンを活用する軍隊へアメリカ軍を再編する為に集まった軍官民共同の超党派派閥連合であり、この部屋に入る資格があるということは、その派閥の中でも重鎮であることを示した。

そして、この部屋の中で話されていることは、来るべきソ連との決戦がヨーロッパの大地にて行われるときに、如何にして彼らを通常兵器による戦闘にて撃破するか、如何にして核兵器に頼らずともソ連を食い留めるかということであり、それは結果次第では西側自由世界、果ては世界の未来を定める可能性すらあった。

そのような議論が活発になされる中、ある民間のアメリカ人が、ふと思い立ったように、一つ議題に関して横道にそれた質問を行った。

「ここアメリカでは、第一次世界大戦においてドイツ軍が行った浸透戦術というものがドイツ軍の電撃戦の萌芽を生んだと、よく議題に上がります。浸透戦術、というと、突撃隊によって行われる攻撃戦術のことです。この種の部隊の戦術の後世への影響をお聞かせ願えないでしょうか。」

確かに、これはアメリカにおける機動戦ドクトリンの生成において重要な論点の一つであったが、一方で、それはソ連軍による西方ヨーロッパの蹂躙の阻止に寄与しないことも明らかであった。

その質問が直接は議題に関係ないことを認識しつつも、生徒からの質問にきちんと答える良き教師のように、Balck将軍は、整然と答える。

「第一次世界大戦の終盤、私はその突撃隊に居た。」

これにアメリカ人たちは驚いた。彼らが学んでいる文献の生き証人が眼の前に居たのだ。

興奮に飲まれ、アメリカ人は続き質問する。

「では、突撃隊が攻撃任務に使われていたということは事実でしょうか。」

その言葉に将軍は同意する。

「いかにも。私は、第一次世界大戦においてほぼ全ての種類の戦闘を経験したと自負しているが、その中でも彼らは最良の攻撃部隊であった。」

しかし、続く彼の言葉はアメリカ人たちをこれまで以上に驚かせた。

「しかし、私はこの浸透戦術というものを聞いたことがない。」[1]

序文

浸透戦術というものは、幻である。

少なくとも、かつてカール=ハインツ・フリーザーが『電撃戦という幻』にて『電撃戦』が幻であることを証明した程度にその存在は具体的な根拠に欠けている。フリーザーはドイツ軍がフランス戦にて用いたとされる所謂『電撃戦ドクトリン』とでも言うべきとものは存在しなかったと書く。しかし、同時にフリーザーはドイツ軍最高司令部ならびに指揮官達の各種独断専行、ドイツ軍の比較的先進的な機甲戦術、そして受けるフランス軍の様々な問題などが重なり、歴史的事実であるドイツ軍のフランスでの勝利を生んだ事は認めている。ここで問題とされるのは、それらを外部の人々がまとめる際に一本の論筋として、『電撃戦ドクトリン』にて個々に独立した事象を線でつなげてしまったから生まれてしまった事にある。実際のところは個々の独立した事象は個々の独立した事象として描くべきで、それらの偶然の産物を意図して生まれたものと解釈するのは間違いである。

これとまた同様の事が、『浸透戦術』と呼ばれるものにも言うことができる。

第一次世界大戦百周年に前後し、かの戦争について再度注目が集まり、書籍が出版されるようになると、幾つか第一次世界大戦の諸事情に関する包括的な研究が出版されるようになった。その多くの研究の内の一つが"German Assault Troops of the First World War: Stosstrupptaktik / The First Stormtroopers"であった。本著にて『浸透戦術』に関しても、『電撃戦』と似たような誤認が存在すると、著者のStephen Bullは主張した。その実、これらは、個別の事象であると考えるべきではないか、とBullは主張する。

このBullの論は、Stephen Robinsonら一部の歴史家たちの支持を得た。Robinsonはこの論旨に、資料史的な側面を書き加え『浸透戦術という幻』と『電撃戦という幻』の解釈が同一の歴史的背景により生まれたものではないかという分析を行い、それを豊富な資料にて裏付けを行った。

言語的厳密性はこの際、重要である。何故ならば、広義の意味で使われる浸透戦術と、本論が議題とする狭義の『浸透戦術』はまったくの別物であり、狭義のものの否定は広義のものの否定を意味しないからである。

本項は、広義の浸透戦術、すなわち、浸透により、偵察、破壊工作などを行うという戦術の実在は疑っていない。それらは古代より行われてきた基本的な戦術の一つであり、現代でも使われ、おそらく遠い未来まで使われ続ける戦術であると考えられる。

しかし、より狭義の『浸透戦術』すなわち、『第一次世界大戦中のドイツ軍のvon Hutier将軍によって生み出され、1918年の春季攻勢にてドイツ軍の成功の要因となった、突撃隊による浸透による敵の強固な点の迂回と、後方の撹乱を主戦術としたドクトリン』というものの実存を本項は否定する。これを更に噛み砕くと、三つの鍵となる要素を含む、『浸透戦術』に関する記述である。第一にそれは『浸透戦術』の名称にて呼ばれている第一次世界大戦のドイツ軍の戦術であること。第二に、それは『von Hutier将軍が1918年の春季攻勢にてドイツ軍の成功の要因となった』としていること。そして、第三にそれは『敵の迂回による後方撹乱を主目的』とすること、となる。

この『浸透戦術』が幻であることを示す論旨は以下のようなものになる。『電撃戦』と同じように、『浸透戦術』に関しても、全体を構成する各要素は実在した。それはドイツ軍の『突撃隊』であったり、1918年春季攻勢におけるドイツ軍の成功であったり、フォン・ユティエと呼ばれるドイツ軍の指揮官である。しかし、これらを貫く一本の論旨である『浸透戦術』となると、実存が怪しくなる。

本項はBullとRobinsonの論を結びつけ、それを包括的に紹介し、如何にして突撃隊と1918年春季攻勢が『浸透戦術』神話へ至ったかを説明し、そしてそれからその言説がどのようにして広まったのかを描く。

第一章 ドイツ軍の突撃隊戦術について

『浸透戦術』神話の形成にて、スタート地点とできる場所は幾つかある。ここでは、その物理的核とされる突撃隊と、その部隊が第一次世界大戦中に採用した戦術が如何にして生まれ、どのようなものであったかをまず最初に描くことにする。

1914年にサラエボでフランツ・フェルディナンド皇太子が暗殺され、それに伴う一連の宣戦布告により第一次世界大戦が勃発すると、ドイツ軍は直ぐ様自らの軍を動員し、フランツへ侵攻した。ドイツ軍は二正面作戦を避けるために、ロシアとの戦争の前にフランスを打倒するという基本戦略を採用しており、その方法として右翼を大きく迂回させフランス軍の包囲・殲滅を目指すシュリーフェン・プランを採用していた。8月の砲声が鳴り響く中、両陣営はこの右翼の迂回運動の成否をかけ争ったが、最終的にドイツ軍の迂回運動はマルヌ会戦の結果止まり、そしてそこから続く海への競争にて戦線は北海からスイスまでの区間にて運動の余地がなくなるほどに飽和し、戦争は塹壕戦の形態を取るようになった。

塹壕戦とは陣地戦の一種で、地面に穴を掘り作られた塹壕を主に、鉄条網や機関銃陣地、トーチカや地下壕などといったものにより補強された、強固な陣地でこれまでの野戦築城よりは永久要塞に近い堅牢さを誇った。

また、戦線が国境の片端からもう片端まで伸びていることは、迂回や機動によるこれらの陣地の包囲を行えないことを意味し、第一次世界大戦前までの堅牢な要塞攻略の主要手段であった包囲による兵糧攻めは最早叶わぬ願いになった。

第一次世界大戦の西部戦線においてにらみ合う両軍は、このような戦術的環境に置かれ、その後五年間に渡り、正面からの攻撃を受け止めるために設計された陣地を正面から攻略するという難問に挑み続ける事になる。

・1・

第一次世界大戦開戦前のドイツ軍のドクトリンはVernichtungsschlacht、直訳では破壊的戦闘となり、一般的には殲滅戦と訳されるものであり、戦略的次元での適用であるNiederwerfungsstrategieと称されるものであった。これは、より多数かつ装備も優勢であったローマ軍の野戦軍をハンニバル・バルカのカルタゴ軍が包囲・殲滅したカンナエの戦いを理想とする『カンナエの精神』に基づき、機動による敵軍の野戦における包囲・殲滅を目的としたものであった。これは直近では、アウステルリッツなどのナポレオン戦争における戦訓をもとに発展し、Moltke the elderによる普仏戦争のセダンの戦いの結果はこれの最良の再現であった。Schliefenによるこの精神の再現こそが、シュリーフェン・プランであった。[2]また、戦略より下、すなわち、作戦、戦術、そして小隊戦術の領域でもNiederwerfungsstrategieの精神は適用され、兵たちは、どのような戦闘規模においても、迂回などの機動を駆使し、敵部隊の撃破を試みるものとされた。

しかし、すでに述べたように、シュリーフェンプランは失敗し、1914年の夏におけるカンナエの再現は起こり得ないことが自明となった。このような状況下にて、ドイツ軍のVernichtungsschlachtドクトリンの放棄は、海への競争の直後に起きた。Moltke the youngerの参謀総長からの解任後、後任のFalkenhaynが行った最初の施策は、全軍に対し進軍を停止し、塹壕を掘るよう命じることであった。Falkenhayn自身はVernichtungsschlachtの放棄に後ろ向きであったが、それでもVernichtungsschlachtによる戦略を継続する事のデメリットは前進の停止を受け入れることのデメリットを上回るとして、自身の選択を正当化した。[3]

上部構造のドクトリンの変化は、当然のことながら下部構造のドクトリンにも踏襲された。尤も、資料的裏付けは乏しいものの、常識的に考えれば平原にて敵の砲火にさらされる兵たちはFalkenhaynの施策に先んじ塹壕を掘り始めたと考えられている。[4]このドクトリンの変化を、ある士官は以下のように書き残している。

私たちが長年待ち望んできた活気に満ちた陽気な戦争は、予期せぬ方向に進んでしまった。軍隊は機械に殺され、馬はほとんど不要になった…最も重要な兵種は今や工兵であり、数十年にわたって教えられた軍事理論が無価値であることが示され、今ではすべてが異なる方法で行われている。

[5]

Niederwerfungsstrategieの精神の失脚後、新しいドクトリンとして採択されたのはMaterialschlacht、直訳では物質戦と訳せ、兵器の物量と技術によって行われる、本当の意味での消耗戦、Erschöpfungskriegであった。このMaterialschlacht下の戦闘は死傷者損耗の交換比率が重要とされ、最終的には敵軍の多大なる損耗による戦意損失を目指した。それの戦略的適用であるErmattungsstrategie、疲弊戦略、において、戦闘の目的は機動による野戦軍の撃破や、政治目標の占領を目指すものから、一人でも多くの敵を死傷させるものへと変化した。[6]

新しく総参謀長となったFalkenhaynがどれほど本当にこのMaterialschlachtを信じていたかというのには議論の余地がある。この疑問は当然のものである。何故ならば、その名の通り、Materialschlacht、物質戦、では物質に劣るドイツ軍は戦略的不利に立たされていたからである。ドイツ軍は西部戦線・東部戦線の二正面作戦を強いられており、また、ドイツ自身にも同盟国があったとはいえ、協商側のイギリス・フランス・ロシアの三大国に比べれば格落ちであることは明確で、人的資源と工業生産力、二つの物質的側面において、ドイツは劣勢であったからである。この事を踏まえ、FalkenhaynのMaterialschlachtへの信望がどの程度のものであったかには二つの異なる見方が生じた。一方にはFalkenhaynにとってMaterialschlachtによる消耗戦はあくまでも短期的な暫定戦略でしかなく、敵の予備を十分に損耗させることができたら、最終的にはNiederwerfungsstrategieに戻り、決定的な機動により敵の野戦軍を撃破する攻勢にて勝利を目指すつもりであったという見方が存在する。[7]他方、Falkenhaynは総参謀長時代の最初期よりMaterialschlachtによる勝利を目指していたとの資料などをもとに真逆を主張する人々も存在する。[8]本人は戦後、回想録にて、自身はMaterialschlachtを通じた消耗戦にて勝利を目指していたとの弁を用いているが、敗将の自己弁護の信用性が薄いのは、歴史を通じ変わらぬことである。

どちらの見方が正しいにせよ、少なくとも1916年にて行われたVerdunの戦いの経過がMaterialschlachtの様相を示したのは歴史的な事実である。Falkenhaynの戦略が間違っていたかの問題はともかく、彼の戦術的認識、最早機動力よりも砲兵火力こそが戦闘において重要であるという認識、は正しかった。[9]Verdunの初期攻勢は予想通りフランス軍の予備兵力による反撃の誘引に成功し、その地に先んじて展開していた砲兵火力の元、ドイツ軍は優位な交換比率を得ることに成功した。しかし、攻勢が長引くにつれ、フランス軍の砲兵も戦場に到着し始め、砲兵火力の差は埋まっていき、それは交換比率の悪化へとつながっていった。十ヶ月にも及ぶ激闘の末、ドイツ軍は攻勢の開始地点へと後退し、その過程にて自軍への損害よりも多い損害を敵軍へ与えたが、その差は協商国側と中央国側の人的資源の差を埋めるほど大きなものではなく、フランス軍の士気は下がったものの降伏へ至るものではなく、そしてもしFalkenhaynがフランス軍の予備兵力損耗の後のNiederwerfungsstrategieへの回帰を目指していたのだとしたら、その機会はVerdunの戦いを通じて発生しなかった。

Verdunにて目に見える結果をもたらせなかったFalkenhaynが更迭され、事実上の次の総司令官としてLudendorffが就任すると、ドイツのドクトリンは再度変化する。Ludendorffは、Vernichtungsschlachtを退廃的なドクトリンと考え、古き良きNiederwerfungsstrategieにおける勝利を目指すことを考えた。[10]また、Falkenhaynと異なり、西部戦線の過度に飽和した戦線の突破は戦術的に難しいと結論したLudenforffはまず東部戦線における勝利を目指すこととした。一方、西方ではヒンデンブルク線を主とした防御戦略が取られることとなった。

1916年から1917年にかけて、Ludendorffは東部戦線にてルーマニア侵攻やKerensky攻勢に対する反撃戦やRiga攻勢などの幾つかの局地攻勢を行い、これらの作戦にてドイツ軍は成功を収めた。それら、ならびに各種事情によりロシア革命が発生すると、東部戦線においてドイツ軍は事実上の勝利を納めることに成功した。これらの成功の内、ルーマニア戦役の成功がLudendorffに最も大きな自信をもたらした。何故ならば、ルーマニア戦役は、機動の余地さえあれば、Niederwerfungsstrategieによる野戦軍の捕捉、殲滅、そしてそれを通じたVernichtungsschlachtによる戦争の勝利が可能であることを示したからである。この前提を元に、Ludendorffは1918年、協商国の野戦軍の捕捉、殲滅を行う攻勢の準備を行うことになる。[11]

ここにて、第一次世界大戦中のドイツ軍内のドクトリン議論が殲滅戦か、消耗戦かの対立軸であり、後のNATO諸国での機動戦と消耗戦の対立軸とは異なる事は特記に値する。片軸が消耗戦であり、また殲滅戦においては機動による敵の包囲が必要なことから、これらはしばし同一視されることがあるが、第一次世界大戦のドイツ軍は敵の指揮中枢への攻撃を必ずしも重視しておらず、どちらかというと片翼ないし両翼包囲における敵の主力の撃破こそを目的とした。彼らにとって機動とは、より効果的に敵と戦うための手段でしかなかった。

・2・

このようなドクトリン・戦略次元での思想変化と時同じくして、戦術ならびに小隊戦術も変化をしていった。しかし、ドクトリン・戦略次元では殲滅戦と消耗戦が主導権を取り合ったのに対し、戦術ならび小隊戦術は変わってしまった戦場の現実に即し、より線形な進化をしていった。

砲撃と機関銃などによるによる被害をへらすため、歩兵は徐々により散開するようになった。開戦前に既に時代遅れになりつつあった密集陣形にて行軍する歩兵というものは1914年内には戦場から姿を消し、1915年には散兵線すらも密集しすぎていると考えられ、より小規模な部隊単位での行軍が考えられるようになった。戦闘は大隊、中隊単位のものから、小隊、分隊単位のものへと分散していった。

また、小部隊そのものもより複雑化した。小銃と銃剣で装備した均一な兵士で構成されていた1914年の大隊は、1917年には、個々の兵士に配備された手榴弾と、専任の擲弾兵、ライフルグレネード、狙撃手、個々の小隊へ配布されたルイス軽機関銃、そしてそれらを支援する為の迫撃砲や重機関銃を装備するに至った。

このような流れの中で、突撃隊の萌芽は生まれることとなった。

1915年に時計の針を巻き戻す。この時期に突撃隊の始祖的存在とされるものは複数存在した。一つは戦場の至る所で行われるようになったStoß、衝撃、戦術の登場で、これは小部隊による手榴弾による敵塹壕の(制圧射撃的な意味での)制圧からの突入を可能とした。特に、これを行う専門部隊としてGarde Schutzen Battalionが編成した攻撃中隊などは特記に値する。似たようなものに、冒頭のBalck将軍が参加していた山岳兵よりなるAlpenkorpの、Sprosser少佐が率いるWürttembergisches Gebirgsbataillonがある。[12]他方、意図的に組織された部隊にも始祖的存在があり、OHL作戦部II部のBauer大佐主導によって作られた迫撃砲や火炎放射器などの実証部隊である、Strumkanonenの編成がそれにあたる。[13]

突撃隊の歴史について語られる際、後者のStrumkanonenを中心に語られることが多い。技術肌とされたKalsow少佐が更迭され、後任のより積極的かつイノベーティブなRohr大尉が指揮を取るようになり、部隊がStrumabteilung、突撃隊、と名前を変えると、その事はより明確になる。歴史家のBullは突撃隊の誕生において、他部隊の役割も重要と説くが、Robinsonなどは、この改名を突撃隊の誕生の瞬間としている。[14][15]

1915年から1916年を通じ、Strumabteilung Rohrは様々な小規模な攻勢に参加し、初めは技術実証として、そして続いてはそれらの実証された技術を利用した戦術の研究部隊として、幾つかの成功を収めた。結果、Strumabteilung Rohrは十分その価値を証明したとし、中隊規模から大隊規模へと拡張されることになった。

この頃よりStrumbattalion Rohrは教育部隊としての性格を帯びるようになり、大隊には全軍から将校が新しい武器やそれを利用した戦術を学びに来るようになった。また、ドイツ軍はこれを利用し、各師団において攻撃用途の部隊の編成に努め、1916年末にはほとんどの師団に一個中隊は突撃隊が編成され、16個の師団ではこれは大隊規模であった。当然の事ながらStrumbattalion Rohrには各師団の最精鋭の士官や下士官が教育に訪れ、それはこの新設の部隊がかつての近衛兵、擲弾兵や猟兵のような精鋭部隊であるかのような印象を与えた。[16]

しかし、このような拡張の仕方は突撃隊プログラムの発案者Bauer大佐の望むところではなかった。Bauer大佐の考えでは、あるべき姿は突撃隊のように選抜兵の突入、突破という戦闘様式ではなく、あくまでも全軍が等しく新兵器による新戦術を実践可能な状態にある、ということであった。この事はLudendorffも同様の意見を持っており、最終的には全ての師団が均一の攻撃能力を持つべきであると考えた。Bauerは部隊の『精鋭部隊』化には悪し側面すらあると考えた。また、突撃隊に突撃任務を集中させてしまうと、「突撃隊が切り開き、後続が突入する」といったような戦術的手法へ固執により、攻勢正面が狭くなる恐れがあった。しかし、新兵器の不足とそれを教える教官の不足、そしてLandstrumなどの明らかにそのような任務が行いない老人兵などの存在は、このような拡張の仕方を仕方ないものとした。[17]

しかし、このような『精鋭部隊』的存在にはメリットも存在した。これらの部隊は友軍にとっての規範になりうると同時に、敵軍への畏怖を与えるプロパガンダ的な役割も期待された。[18]そして、そのプロパガンダ的な象徴性は、彼らが意図していなかった方向に、想像以上の射程を示すこととなる。

・3・

1916年から1917年にかけて、拡張され、各師団に配備された突撃隊は西部戦線、東部戦線、イタリア戦線の各所にて、戦闘に参加し実戦経験を育てていくことになる。これにRigaの戦いにて第八軍を指揮したvon Hutier中将も含まれた。伝承上の『浸透戦術』では、『浸透戦術』はRigaの戦いにてvon Hutier中将が発案したものとされているが、既に示した通り、突撃隊戦術はそれ以前よりあるものであった。

これらRigaの戦いやCambraiでの反撃戦といった諸戦闘の経験を踏まえ、1918年1月1日、これらの集大成として参謀本部は"Der Angriff im Stellungskrieg"(陣地への攻撃戦)を出版する。これは、包括的な歩兵に寄る攻撃戦の実施方法を記しているという意味でも重要であったが、より大きな意味としては、突入から突破、そして運動戦への回帰、までを描いているという意味で新しかった。[19]

この新しいマニュアルにおいて、その中核を為すのは、砲兵であった。第一次世界大戦の開戦以来最重要の兵科であった砲兵はこれまで以上の重要性を与えられた。砲兵は三つの計画砲撃、敵砲兵の制圧・敵塹壕の制圧と陣地の破壊・敵予備ならびに連絡網への攻撃、と、四つの攻撃への支援砲撃、移動弾幕射撃・歩兵砲と野砲の前進による直射ならびに支援砲撃・友軍がが制圧中の陣地をそれ以外を分離するための地域射撃・敵反撃を破砕する防護射撃、に別けられた。また、いずれの種類の砲撃も、より効果的であるためには広く冗長なものではなく、短く集中したものであるべきとされた。砲兵によって歩兵の攻撃に先んじて、あるいは並行して行われるこれらの砲撃こそが、攻撃の成否を左右するものとされた。

一方で、このような砲撃でも破壊しきれないバンカーや機関銃陣地が存在する事をマニュアルは認識し、それらの排除こそが、1918年の歩兵の戦場での役割であった。ドクトリン上はこれは全ての歩兵が可能であることとされたが、この役割は事実上、各師団の突撃大隊に与えられた。

実際の戦闘における突撃大隊の役割は突撃工兵とも言うべきもので、それはVernichtungsschlacht、殲滅戦ドクトリンに則り、敵の撃破を目指しながら、後続の友軍予備の通り道を作るというものであった。理論上、彼らは「最後の支援砲撃の砲弾が着弾する」と同時に攻撃を開始するものとされ、それができない場合でも、支援砲撃が続いている間に可能な限り敵陣地へと接近し、最後の突入距離を可能な限り短くするものとされた。その形について、マニュアルは以下のように述べる。

部隊が全武装を十分に活用し、敵の既知の弱点を突かねばならず、また、攻撃を成功させるためには速度が重要である。成功は、各人の決然とした没我的行動と主導権によってもたらされる。一か所への攻撃の牽制が全線に広がってはならない。素早く前進する歩兵は、固守している敵の部隊を包囲し、それらを一掃して、足止めされている自軍の後進する部隊の前進のための道を開くことができる。躊躇いは失敗である。戦闘区域内では、攻撃は一様に行われてはならない。敵陣地、村落、森などは、場合によっては煙幕によって無力化しなければならない。部隊はそれらを通過し、深く分散して、最も抵抗が少ないと思われる地点へ攻撃しなければならない。これらの残された敵拠点は、後続部隊によって包囲、撃破される。

[20]

ここにて表現されている要素が、伝承上の『浸透戦術』とどれほど一致して、どれほど異なるか、というのは少し興味深い。なぜなら、ここで機動などの浸透的な要素の活用において、ドクトリンは一意的な解答を出していないからである。片や後続部隊の障害になりうる敵の火点などは包囲、撃破すべきとする一方で、それらは通過し、敵の最小抵抗地点へ向かうべきともしているからである。これは片や矛盾のように見受けられるが、これは、ドクトリン制定者、そしてその長であるLudendorffの「ドクトリンは教義(Dogma)であってはいけない」という意志の現れである。そして、現場の指揮官たちは状況に応じ、より必要とされる目標を、より状況に応じて適切である手段で攻撃することが求められた。[21]その状況にて真に重要となるのは、それらの判断基準である。そして、この新しいマニュアルはそれに明確な答えを出している。

突破口を開くためのは、指揮官と軍隊が塹壕戦の習慣と慣習から自らを解放することを必要とする。此度の戦争において戦争の方法と戦術は、全ての細部にわたって変化している。しかし、平時の軍事訓練の根底を形成し、過去の戦争における全ての成功の源泉となった偉大な軍事原則は、依然として古いものである。これらの軍事原則は、忘れ去られたところでは、再び呼び起こされなければならない。

[22]

ここで書かれている古い軍事原則とは、Vernichtungsschlacht、殲滅戦であり、そしてそれはカンナエの原則の再現、機動と包囲を通じた敵野戦軍の撃破である。その意味にて、"Der Angriff im Stellungskrieg"の突撃隊戦術は伝承上の『浸透戦術』と決定的に異なる。1918年のドイツ軍の突撃隊は、敵の指揮系統や連絡網に対する攻撃により混乱をもたらすのを目的とした部隊ではなく、あくまでも、敵野戦軍の撃破を行う為の部隊であった。そして、1918年の春、この戦術を有した突撃部隊は敵野戦軍の撃破の為に西部戦線にて伝説的な攻勢に参加することになる。

第二章 1918年春季攻勢

1917年にロシアが革命により戦争から離脱すると、Ludendorffはその意識を西部戦線に集中させることとなる。大規模の部隊が東部戦線より輸送され、それらを用いたVernichtungsschlacht的な攻勢が用意されるつつあった。ここにて、来る決戦の行く末を知るためには、それを受ける協商国側の状況と思考の理解が不可欠である。次に、これらを描いた後に、1918年春季攻勢が如何なる成功の土台の元に行われたかを描き、神話の生まれを暴き出す。

・4・

1917年末から初頭、協商国GHQから見た戦略局面は特殊な事情を示していた。それは、短期的な困難と中期的な問題と、長期的な楽観の三つを兼ね備えていたからだ。

短期的に、最大の問題はフランス軍の士気を如何にして維持するかということであった。1917年のニヴェル攻勢の失敗とそれに伴う1917年のフランス軍内での一連の反乱は、最早フランス軍の士気は崩壊寸前で、これ以上の失敗はロシアのような革命と、それに伴うフランスの戦争からの離脱を意味するかに思えた。Petain元帥の一連の施策はこれらの反乱を押さえつけるのに機能したが、それらの施策の多くは実働戦力の減少を意味するものであった。実働戦力の減少に伴い、フランス軍の戦線は縮小しなければならず、それは結果、英軍戦線の延翼を招いた。

中期的な問題は、ロシア革命による東部戦線の消滅によるドイツ軍の西部戦線増強であった。東部戦線に張り付いていたドイツ軍の師団が西部戦線へ転用されるのは、当然の帰結であった。

しかし、長期的な楽観もあった。1917年、大西洋の向こうに鎮座する未参戦であった最後の大国であるアメリカが第一次世界大戦に参戦したのだ。当時のアメリカは未だ発展途上にあったものの、それでも英仏の倍の人口とまだすり潰されてない青年人口を抱えており、動員、訓練に一年ほど時間がかかるとされたものの、いざ戦線に投入されれば、東部戦線から転用された部隊を数えたとしても中央国に対し圧倒的な数的優位を築けると見込まれた。

この三つから考えられるドイツ側の戦略は、東部戦線から転用された部隊を用いた攻勢戦略による、勝利を目指すものと考えられた。それを正しく予期したGHQは、ここに来て、基本戦略として、攻勢戦略ではなく、防御戦略への転換を図った。すなわち、米軍の参戦までは基本的に防御の体制に徹する、というものである。

この基本方針は同意されたものの、協商国内部でも、脆弱となったフランス軍の士気の破砕を狙われると危惧したフランス軍と、英仏海峡港の制圧にて英軍の戦線離脱を狙うと考えた英軍の間で予期されるドイツ軍の攻勢方向は割れていた為、妥協案として、大きめのGHQ予備を形成するという策にて合意が形成された。そしてフランス軍は、この予備は当然フランス軍によって構成されることとし、状況を踏まえこのフランス軍の要望を英軍は飲み、結果英軍は更に延翼を余儀なくされた。[23]

この合意の裏舞台で、Haigは英国内の敵と戦っていた。英国首相Lloyd GeorgeはHaigの戦争指導とに不満を持っており、特に1917年の各種攻勢にて特に目立った成果もなく人命が失われたことを根に持っていた。故に、首相はHaigに余分な兵力を与えると不要な攻勢を行い人命を失うと考え、Haigが要求した60万人に対し、10万人しか供給しなかった。[24]

結果、BEFはフランス軍のセクター受け渡しに伴い戦線が三割ほど長くなったにも関わらず、補充兵の不足により軍の再編を余儀なくされた。結果、総師団数は1917年の秋には62個師団あったのが、1918年1月には58個師団へ師団数は減少した。しかも、この削減の上でも英軍は7万人ほど完全充足に足りていなかった。[25]

このような状況の中でHaigは来るドイツ軍の攻勢への備えを行うこととなった。

Haig自身は自らのセクターではなく、フランス軍がドイツ軍の攻勢目標であると考えていたものの、それでもHaigとその参謀たちは英軍担当戦区の中で、敵の戦略目標となりそうな場所の割り出しに勤しんだ。Haigにとって最重要であったのは第一に英仏海峡港の連絡線の確保であり、第二に仏軍との連絡線の維持であった。結果、英仏交通網の主要駅直前に位置し、なおかつ比較的英仏連絡港にも近いArrasとCambraiにそれぞれ位置する第三軍と第二軍が敵の攻撃目標であると考えられ、これらの軍団は短い担当戦線と、質の良い師団の割当が行われた。第二に、仏軍との連絡線の維持には関わっていないものの、英仏海峡港前面に位置する第一軍の一部は二線級のベルギーやポルトガルの師団だったものの、全体として比較的短い戦線と、高い充足率を与えられた。この三個軍を比較的よい状態に保つためのツケは、英軍最右翼に位置する、Hubert Goughの英第五軍へ押し付けられた。

Hubert Goughの英第五軍は、非常に悪い状態にあった。軍自体が前年の攻勢からの完全に立ち直っていなかった事に加え、フランス軍の戦線縮小に応じた英軍の延翼分の戦線は全て第五軍に割り当てられた。しかも、これらの地区はこれまでの戦闘の経過やフランス軍の問題により、十分に要塞化されていない地域で、英軍が引き継いだ際に該当部分の塹壕はひどい状況であった。[26]しかしながら、Goughの再三の増援要請にもかかわらず、第五軍は先に述べた英軍全体の人員難より増強されず、当初のままの兵力にてこのセクターを守ることとされた。結果、第五軍は担当戦線に対し、著しく兵員が不足していた。比較として、英第三軍が14個師団で45kmを守っていたのに対し、第五軍はそれより少ない12個師団でより長い67kmの戦線を守る形であり、一個師団あたりの担当戦線は倍近かった。[27]Goughはこの薄く伸びた第五軍を、半ば皮肉的に、Balaclavaの戦いの英軍へなぞらえ、薄赤線(Thin red line)と評した。[28]

長過ぎる戦線を適切に守り切る為には、第五軍は英軍の新しい縦深防御ドクトリンを上手く使いこなす必要があったが、これは指揮官のGough自身の問題により、難航した。1917年を攻勢計画を練ることで過ごしたGoughはこの新しい防御ドクトリンの理解に失敗した。新しい防御ドクトリンではの英軍の第一線(Forward Zone)、戦闘線(Battle Zone)、後方線(Rear Zone)の三段階に別けられていたが、彼のセクターでは全体的に、第一線への兵力配分が過剰で、戦闘線への兵力配分が不足していた。主抵抗線である戦闘線には兵力の2/3が配分されるべきとされたのにも関わらず、彼の兵力の84%は敵準備砲撃に晒されるであろう第一線に配備されていた。[29]もちろん、彼は他の軍よりも担当戦区が広く、その為、他の軍よりも第一線に配備される人員が多くなるは事実であるが、それでもこの数は過剰であった。また、他にも、Goughの新しいドクトリンに対する無理解を示すエピソードとして、彼の部下の軍団長二人がどの程度の兵力を第一線と戦闘線に配分するかで揉めた際、彼ら自身の好きにさせるという曖昧な態度を彼が取るというものがある。これらを踏まえ、Goughの新しい防御ドクトリンへの無理解はほぼ確実のように思える。[30]

Goughが実際に採用した第一線での防御を行う戦術は、たしかに敵の歩兵攻勢に対しては十分な効果があることが期待できたものの、敵の事前砲撃の射程内に多くの兵力を配置することも意味し、十分な砲火力を敵軍がこのセクターに集中した場合、大損害が発生することが見込まれた。また、そのような大火力に抗える唯一の手段である防御陣地も、フランス軍側の問題により十分に構築されておらず、砲撃の効果を十分に減衰することができなかった。

この第五軍への軽視は、幾つかの理由があるが、その中でも最も大きなものは、第五軍がなんら戦略的に重要な地点を守っていないという事であった。Goughの第五軍は、物理的には英仏軍の間にあり、二国の連絡線の維持に関わっているように見えたが、実際のところここ五年の主戦場であったこの区画を避けるように主要鉄道連絡網は構築されていた為、第五軍のセクターが多少後退したところで英仏軍間の移動に支障を来すことはなかった。第五軍のセクターの後方で比較的重要な戦略目標であったのはAmiensとParisであったが、これらはそれぞれ前線から75kmと150kmも離れており、もし前線が突破されることがあったとしても、予備部隊の展開が十分に間に合う空間的距離があると考えられた。実際、Haigも、最悪の場合、遅滞戦闘を行いつつ後退を行わなければいけないというGoughの意見に賛同し、事前にこの行為に認可を与えていた。[31]

また、このような状況におかれたGoughが、困難を認識しつつもGHQに対し比較的小さい抵抗しか行わなかったことには理由がある。それはGough自身、複雑な状況に置かれていたからである。1917年のPasschendaeleでの戦いにおいて指揮能力を疑問を持たれたGoughは次に失敗すれば自身の解任が待っていることを理解していた。また、自身戦略的視点を持っていたGoughは他の戦線、特に英仏海峡港付近の師団を引き抜けないというHaigの弁明に理解を示し、たとえ自身が敗走することになっても、戦略的敗北に結びつかないだろうというある種の楽観視すら持っていた。[32]

しかし、Goughもまったく静し運命を待つのでもなかった。彼は情報を得るために積極的な塹壕襲撃を奨励し、自分が置かれている状況がどのようなものなのかの把握に努めていた。そして、2月1日彼は重要な情報の入手に成功する。[33]

Rigaにて大成功を収めたvon Hutier中将麾下の独第十八軍が私の戦線の正面に現れた。

[34]

これは幾つかの意味にて重要であった。まず、存在しなかった一個軍が既に第五軍に正対する二個軍の間に現れたということは、既に数的不利にある第五軍は、さらなる数的不利に晒される事を意味した。また、この部隊の戦線への到着は、ドイツ軍の東部戦線から西部戦線への部隊の再配置が最終段階にあり、攻勢準備が整いつつあることも語っていた。そして、攻勢作戦にて成功を収めた将軍の数が限られている戦争にて、そのような経歴を持つ指揮官が現れたということは、その地域は攻勢の対象になる可能性が高かった。これら全ては同じことを示唆しており、それは敵の攻勢は、第五軍を標的としているということであった。

Goughの警告は、正しかったことが証明される。

・5・

---1918年、3月21日、午後二時半頃、フランス、クレシー=アン=ポンティユーの英第五軍HQ内にて

英第五軍を指揮するHubert Gough大将は非常に困難な状況に立たされていた。

その日の夜明け前より始まったドイツ軍の砲撃が、予告されていたドイツ軍の大攻勢の発端であることを理解することにさほど時間はかからなかった。

また、彼は彼の戦線はこの攻勢を受け止める準備が十分にできていなかった事を多かれ少なかれ理解していた。

彼の防衛計画は、第一線における抵抗を主たるものとして設計されていたが、まだ生きている電話線から入ってくる報告は、そのこと関し悲観的な未来予測を与えた。

また、まずいことに、彼の想像以上にドイツ軍はこの戦域へ兵力を投入しているようであった。

特に危険な状況にあったのが第二軍団のセクターで、ドイツ軍がこのセクターへ一個軍近い兵力を送っていることは自明であった。

特にその一個軍が東部戦線にて栄光を極めたvon Hutier中将に率いられていたことに彼は以前から悪い予感を覚えていた。

第二軍団HQとの連絡も完全ではなくドイツ軍の砲撃により、午前中は通じていた電話線も午後には切れてしまった。

このような思考の渦の中で、Goughは生きている電話線から入ってくる状況をおぼろげながら拾える情報をまとめ、必要な命令を下そうと頑張っていた。

そんな混乱の中、一つの情報がGoughのHQへ到達する。

『第二軍団の戦闘線の後方にてドイツ軍の部隊が発見された』

この報告を受けると、Goughは直ぐ様少ない荷物をまとめ、第五軍HQを旅立っていく。

第二軍団HQへ出向き、後退命令を出す為に。[35]

・6・

ドイツ軍春季攻勢の"Michael"作戦は3月21日午前四時四十五分に開始された。ドクトリンにて書かれた三種類の砲撃を駆使した5時間にも渡る熾烈な準備砲撃の後、76個師団のドイツ軍歩兵が英第三軍ならびに第五軍に対し攻撃を仕掛けた。[36]

第一線に部隊を集中配備をした第五軍の防衛線は事前砲撃によりかなりの損耗を被り、事実上、機能していなかった。これまでに述べた理由の結果、英第五軍の約三割は砲撃最初の90分にて死傷することとなった。[37]砲撃が開けたあとも第五軍にとって状況は芳しく無くなく、電話線が寸断され、濃霧により視界が限定されている彼らの12個師団に、独第第二軍ならびに第十八軍の計43個師団が殺到していた。生き残った一部の兵士たちは英雄的な抵抗を示す例もあったが、それらは少数の例外にしかすぎず、多くの兵士たちは、自らの判断にて後退するか、たどり着いたドイツ兵たちに降伏するだけであった。ロンドン連隊、2/4(ロンドン)大隊の報告書はこう語る。

すべての通信は早々に切断され、各塹壕の駐屯兵はまったく支援のないまま、個々に戦闘を行うことを強いられることになった。この地域の駅の陣地を除くすべての防御陣地は、敵の激しい事前砲撃によって破壊され、行く場所のない守備隊は、全滅したか、深刻な抵抗がまったくできない状態になってしまったことは、疑いの余地もない事実である

[38]

他の地域も状況はあまり変わらなかった。この日の戦闘に参加し、生き残った少ない中隊長の一人によると、

午前7時、霧が濃くなり、10ヤード先も見えなくなった。電話も通じないし、霧のせいで灯火も見えない。午前7時5分、私の区域は激しい砲撃に晒され、それは一時間続いた。砲撃が終わり次第、私は直ぐ様、大隊本部に向かった。午前八時、私は左翼の大隊から、かの大隊の右辺が敗走したとのメモを受け取った。私は一個小隊を移動させて自身の左翼を補強した。私は2名の伝令を大隊本部に送ったが、後に私は彼らが捕虜になったことを知った。数分後、Gibson(私の右小隊長)が、正面、ならびに南と北から攻撃を受けている上、彼の後方へ展開した敵の機関銃から射撃を受けていることを知らせてきた。このことから、敵は濃い霧を利用し、我々の陣地の隙間へ侵入し、我々の陣地を包囲していることが分かった。Dixonの中央の陣地からは何の知らせもなく、伝令も通れない状態だった。

[39]

という状態であった。実際には背面にまで敵が展開する例は稀であったものの、少なくない生存者は陣地の左右にもドイツ軍が展開し、攻撃を仕掛けてきたことを報告している。多くの部隊はこの状況に置かれると、撤退か降伏のいずれかを選択した。[40]逆側の視点から見える世界もあまり変わらない。実際に攻撃に参加したある突撃隊の兵士は

歩兵隊長の駆け足!の掛け声とともに我々は突撃した。しかし、予想される敵の抵抗はどこにあるのだろうか?なにもないのだ。敵の戦線は思ったほど近くなく、我々は走るしかなかった。息も絶え絶えで、ガスマスクせいで前が見えないので、マスクを外してしまった。私は今日が自分の人生最後の日になると思っていた。ちょっとした機銃掃射があり何人かの兵士がそれを受けた。Wiese少尉が被弾し、私と一緒に爆薬を運んでいた男も倒れたか負傷した…そして我々は目的の鉄条網にたどり着いた。しかし、我々にできることは何もなかった。事前砲撃で有刺鉄線は完全に破壊されていたのだ。敵の塹壕はほとんど残っておらず、ただクレーターと、…クレーターがあるだけだった。今、来た道を振り返ってみると、大勢の兵士が我々に続いていて、喉のつかえを止めることもできなかった。敵は数人しか生き残っておらず、中には負傷している者もいた。そして全員が、両手を挙げていた。

[41]

英軍の第一線は砲撃により撃破され、十分な兵力が配置されていなかった戦闘線では十分な隙間が陣地間にあった為、少なくない突撃隊と後続部隊はこれらとの交戦を行わずに迂回した。結果、ドイツ軍の突撃部隊はあたかも『浸透』したかのように戦闘線の陣地の後方や後方線に現れ始めた。

そのような中でも、砲撃に十分に耐えることができるように設計された陣地は、きちんと生き残っていた。例えばMaxse中将の第十八軍団エリア内に設置された十五の耐砲陣地の内、十三のものは21日を通じ保持された。[42]これらが最終的にドイツ軍の手に渡るのは、ドイツ軍の機動や浸透の結果ではなく、英軍が後退を決断下からであった。

38512人の死傷者を出したこの日は、Sommeの戦いの初日には及ばなかったものの、英軍史において二番目に損害が多い日になった。[43]

しかし、英軍は大損害を受けたものの、『殲滅』されたわけではなかった。第五軍、十三万の将兵の3分の2以上は生き残っており、損害を受けた師団も、まだ戦闘を行う能力を有していた。そして、後退したことにより、彼らは敵の砲兵から遠ざかっており、戦闘はより互角の条件にて行えるようになった。そして、彼らが逃げたことは、ドイツ軍の戦略目標の達成を難しく意味した。Ludendorffは攻勢にあたり、Vernichtungsschlachtの精神に則り、敵野戦軍の捕捉、殲滅による戦争全体の勝利を目指していた。しかし、Ludendorffはカンナエの原則を守るすることに失敗し、敵野戦軍の逃走を許した。英第五軍の戦線にて戦略目標の達成に失敗したドイツ軍は、用意されていた一連の予備作戦より、戦勝し代案を探すことになった。

・7・

Mars作戦は一連の春季攻勢作戦にて核心的野心を持って計画されたものであり、この作戦の成功は戦争全体の勝利へとつながるポテンシャルを秘めていた。この作戦はArras方向へ攻撃し、英仏海峡港の制圧を目指すもので、Haigが危惧した戦略攻勢そのものであり、ドイツ軍参謀総長であるHindenburgはこの戦略方針に好意的な印象を抱いていた。[44]また、Marsは春季攻勢の主攻勢案としてMichaelと共に残った最後の二案の内の一つであり、Arras付近の英第三軍は第五軍より数が多く、有利な地形を保持しており、Marsの成功にはより多量の兵力を要する為、より困難が大きいと判断されなかったら、主攻勢がMarsであった可能性は十分に高い。[45]

最終的にMichaelが主攻となり、Marsは二次的なものへと格下げされた。しかし、Michaelに続く形で行われたことにより、これはLudendorffのアウステルリッツに変化する可能性を得た。

Goughの第五軍への攻撃は、協商国側の予備兵力のArrasの南への転用を強い、それは英軍の中央を薄くさせる効果があったはずであった。それにより、薄くなった英軍中央を攻撃、突破すれば、英仏軍の分断と、英仏海峡港の制圧という結果を齎しえ、それはすなわち、英軍の戦争からの離脱を意味した。[46]

その期待を胸に、3月28日、Mars作戦は開始された。その日、独軍29個師団が英第三軍の14個師団に襲いかかった。特に重点的に攻撃されたのがArrasの東のセクターで、ここを守る英軍4個師団への攻撃にLudendorfは12個師団を割り当てた。[47]

しかし、Mars作戦のような攻勢こそが、Haigが待ち構えていた攻勢であった、Haigはこのエリアからの部隊の転用をほとんど認めておらず、また、ここの陣地は重点的に工事され、当時の英軍の最新の縦深防御陣地が完全な形で存在していた。

ここで、ドイツ軍の突撃大隊は、その真価を試されることとなる。

Mars作戦とMichael攻勢の違いは幾つかある。投入兵力の差、英軍の耐歩陣地の数、Michael攻勢初日にて大いに攻撃側を助けた濃霧がなかったことなど、数え始めれば枚挙に暇がないが、その最も大きなものは、砲兵の準備射撃の質にある。Michaelで五時間行われた準備砲撃は三時間でしかなく、Michaelと異なり、そのほとんどが迫撃砲と野砲によるもので、重砲によるものは少なかった。また、Michaelにて効果的に行われた砲兵による敵砲兵ならび陣地の制圧・破壊を目的とした砲撃は計画射撃ではなく、地域射撃であった。[48]

なぜMichaelの効果的な砲撃がMarsで実施されなかったのは本項の範疇を超える為、ここでは述べない。しかし、その差異の結果起こったことに関しては重要である為、ここで扱うこととする。Marsの砲撃は英軍の第一線に対し被害を与えることに成功したものの、戦闘線はほぼ完全な形にて残ることになった。[49]そびえ立つ第一次世界大戦の要塞線に、ドイツ軍の突撃隊は、正面から突入していく事になった。

そして、その結果は、さんざんたるものであった。

迂回や浸透は試みられ、第一線では幾分か成功したものの、戦闘線と接触するとこれははたまた停止した。ほぼ完全充足の第三軍の戦闘線に、利用可能な隙間などなく、迂回を試みた部隊が遭遇するのは塹壕戦特有の絶え間ない敵の機関銃陣地と鉄条網であった。また、21日と異なり、霧などの天候の支援もなかった。結果、この攻勢の多くの場所にて突撃隊はその本来の戦闘様式、諸兵科連合による前線の敵の撃破による突破口の確保、を試みる形となった。[50]

歴史家のIan Passinghamはこのことについてこう書く。

浸透を試みたドイツの突撃大隊は、その試みが無駄であることを血により学習した。英軍はその日を通じ、連続した防御線を維持し続けた。実際に迂回や浸透に成功した少数の突撃兵は後続部隊の為の道を切り開くことなく、直ぐ様、捕虜にされたか、殺された。

[51]

Ludendorfは初日の進軍目標を8kmとしたが、一日の終わりにドイツ軍は3kmしか進軍しておらず、それはすなわち、敵が元々放棄する予定であった第一線を通り、敵の主抵抗線である戦闘線直前にて停止したことを意味した。『浸透戦術』が華々しい効果を上げたとされた日の七日後、その戦術はそれが打ち破られるとされていた陣地に対し、立ち往生した。この失敗を、Ludendorf自身は以下のように述べる。

(独)第十七軍は3月末、Scarpe川北岸を目指し、Arrasの方向へ攻撃を開始したこれはArrasの北と東にある重要な高台を確保するためのものであった。(中略)私はこの攻勢を最重要のものとして扱った。何故ならばこの高台の確保は(CalaisやDunkirkなどへのアプローチである)Lys平原での戦闘を優位に運ぶのに必要不可欠であったからだ。しかし、大量の火砲と弾薬を消費したのにも関わらず、第十七軍の攻勢は失敗であった。

[52]

この後、数日間、ドイツ軍はこの方向での突破を試みたものの、戦線の突破に至れず、30日、作戦は中止され、同時にLys平原への戦果拡張を試みる予定であったValkyrie作戦は無期限延期される結果となった。

Mars作戦の失敗は、突撃隊戦術を始めとする歩兵戦術の発展は、歩兵を1914年の無力感から開放したが、それは単独で塹壕線を破れるほどのものではなかったことを教えてくれる。もしMichael作戦が敵の塹壕が強力な砲撃によって破壊されていれば、その陣地の残骸へ攻撃する歩兵は迂回、包囲といった機動を活用できることを証明したのだとしたら、Mars作戦はそのような砲撃がなければ、歩兵は相変わらず、地面に這いつくばることしか出来ないことを証明した。

すなわち、それは皆がずっと知っていた事実の再確認であった。

第一次世界大戦の戦場は砲兵によって支配されており、それは開戦から五年経った1918年でも変わらなかったのだ。

・8・

Michael攻勢に関し、現代でも議論される論点の一つは、Michael攻勢の初動における協商国の失敗の責任の所在である。すなわち、どの程度の責任を誰の責任にするべきかという問題である。ここでよく槍玉に挙げるのは、Lloyd George、Haig、Petain、そしてGoughなどといった人物である。前三者に関しては、既に本論の中でも幾つか言及している為、それらは割愛する。

ここで重要なのは、Goughの責任である。第五軍の敗走において、Goughの責任を正確に評価することは難しい。少なくとも、元よりGoughは達成不可能な仕事を押し付けられていたことは間違いなく自明である。

Gough自身、情報収集に努めたり、早期の撤退決断により、第五軍の戦闘力を救ったのは評価されるべきである。また、Goughが新しい防御ドクトリンを理解していなかった事は既に述べているが、この防御ドクトリンの教本の執筆が間に合っておらず、春季攻勢の時点では口伝でしかなかったという弁護を為すことも可能である。この正式な教育マニュアルが完成したのは1918年の5月でしかなかった。[53]

しかし、第三軍がきちんと理解し、実践できた縦深防御を実践できていなかったこと、補強工事を徹底せず、塹壕を引き継いだ際の悪い状態で放置したこと、情報収集により、敵の攻勢の標的である可能性が高いことを認識したのにも関わらず、その対策を怠ったことは、Goughにもやはり責任があることを示している。

歴史家が責任論を話す際、この二つの視点の間で揺れ動くこととなった。

後世の歴史家たちのGoughに対する評価は必ずしも良くはないものの、同情的ではある。ほとんどの歴史家は彼の1918年の敗北の原因は、フランス軍の撤退による延翼だったり、HaigとLloyd Georgeの対立による兵員不足であり、彼自身のコントロールの範疇の外にあることを認めている。また、50年代に一次世界の総括が行われるようになると、そこでの主題は「ロバに率いられたライオンの群れ」論によるHaig批判である、GoughはHaigの被害者として好意的な解釈をされた。これらの解釈を行う歴史家にAlan Clark、A.J.P.Taylor、Liddell Hartなどがいる。[54]近年の歴史家はよりGoughに対し批判的ではあるものの、それらの批判は彼の1916年から1917年にかけての指揮、特にPasschendaele、に関するものであり、1918年に関しては先の論旨を認めた上で、Jerry Murlandの「Goughの戦歴の中で最良の指揮」というものや、Ian Beckettの「状況を考えれば、比較的よく戦った」というものから、Stephen Robinsonの「敗北は彼の責任ではなかったが、彼の杜撰な防御計画は状況を悪化させた」というものまで、様々である。[55][56][57]いずれにせよ、第五軍が受けた損害に関してはともかく、第五軍の敗北に関しての責任はGough自身にはないという意味において、歴史家の見解は一致している。

しかし、1918年ではそのような受け取られ方はされなかった。

大敗北の折に、英国民は誰かが責任を取らねばならないことを要求し、時の首相であるLloyd Georgeは彼の政府から目を逸らさせるための生贄を探すことになり、一時はBEF総司令であるHaig解任すらも視野の範疇であった。しかし、最終的にこれは最も大きな土地的損失を被った第五軍のGough解任という形にて決着した。[58]

皮肉なことに、これは状況がようやく安定し初め、Goughが反撃を行おうとしていた矢先のことであった。

第三章 幻の誕生へ

・9・

第五軍からの解任後、GoughはBEFの予備軍の指揮官に任命されるが、Lloyd Georgeはこれすらも許さず、Goughをその新たなるポストからも解任する。その後、Goughは第五軍の敗走に関する査問に掛けられるが、これ自体は特に何も発展せずに終わる。Lloyd George自身はGoughを軍法会議にかけることも視野に入れていたが、これは最終的に行われずに終わる。[59]

予備軍からの解任後、Goughは書類上は軍人であり続けたが、事実上は解雇されており、第一次世界戦の残りをケンブリッジ大学で農業について学びながら過ごすことになる。戦後、数ヶ月間にわたり軍務に復帰するが、この軍務も解任にて終わり、後、退役する。第五軍のメンバーは彼に他の軍司令同様の名誉が与えられるよう、ロビー活動を行うが、これらの活動がなにかに結びつくことはなかった。[60]

それらの結果、Goughは三十年代をかけて、自らの手にて自らの名誉の回復することを目指すことになる。

戦後初期はGoughと第五軍は戦中同様の批難に晒されることになり、彼の汚名返上は遠いかのように見えた。しかし、二十年代になると、その潮流は少しづつ代わり初め、三十年代には追い風が吹き始めた。

時世の転機は、Birkenhead卿の"Turning Points in History"の執筆にあった。Birkenhead卿は同書における1918年の危機の章の執筆に関し、Goughの助言を求めた。結果、1930年に出版された同書はGoughに好意的な評価を行い、その評価は幾つもの新聞にて引用されることとなる。[61]

同書の世相での反応が悪くなかった事を踏まえ、Goughはついに自伝の執筆に取り掛かることになる。第一次世界大戦の彼の第五軍での経験を描いた"The Fifth Army"は1931年に出版され、比較的世間での反応が良かった上、そこで描かれた幾つかの内容は翌年出版される公刊戦史へ滑り込むこととなる。[62]

また、これらの執筆、ならびに他の第一次世界大戦の参加者たちの自伝執筆流れにおいて、彼はあるLiddell Hartと知り合うことになる。[63]GoughがLiddell Hartに対しどこまでの影響を与えたかは直接測ることはできないが、幾つかの内容に関しLiddell HartはGoughの言い分を無批判に採用しており彼の話を広める事に大きく寄与した。

この一連の流れにおいて、最も重要な役割を果たすことになるのは、1932年に出版された"The Fifth Army in March"である。本著は1918年の春季攻勢、特にMichael攻勢前後の第五軍を扱い、そこでGoughは何度もvon Hutierと彼の新戦術について言及している。

von Hutierの存在はなによりもの警告だった。彼はRigaを攻略した偉大な将軍であり、その手法は独創的であり、卓越し、迅速かつ獰猛であった。

[64]

Riga攻略を指揮したvon Hutierが、英軍の戦線の対岸に現れた。Riga攻略において、彼は奇襲を活用した。攻撃のための全兵力は戦線から70マイル離れたところにいたが、攻撃のわずか八日から五日前に前線地域に集結した。実際の戦闘の前には六時間の準備砲撃が行われただけで、迫撃砲や砲兵陣地は事前に構築されていなかった。
仮に彼の攻撃が完全な奇襲であったとしよう。もしvon HutierがOiseとAlayotとOmignon川の間で、彼の迅速な奇襲作戦を繰り返したとしたらどうなろうのだろうか?それは成功するのではないだろうか?

[65]

この記述自体は『浸透戦術』の文字は出て来ないが、ここで呼ばれているものが『浸透戦術』史観において『浸透戦術』と呼ばれているものは明らかである。また、特にアメリカ圏にて浸透戦術がvon Hutier戦術と呼ばれる事になった事の語源はこれらの記述に求めることができる。Goughによる執筆前にvon Hutierと浸透戦術を結びつける史料は存在しない。[66][67]そして、敗将の自己弁護の信用性が薄いのは、歴史を通じ変わらぬことであるのにも関わらず、これは幾つかの資料にて引用され、片や公刊戦史に、もう片やLiddell Hartに引用され、この記述は多方に広がっていくことになる。

しかし、この本の記述にも少し問題がある。ここではvon Hutierは奇襲を軸とした新戦術を行ったと書かれているだけで、それはどちらかと言えば歩兵というよりは砲兵を軸としたものであるように書かれている。『浸透戦術』の重要要素である、浸透し、混乱を生む歩兵はここに不在している。

『浸透戦術』そのものの語源を見つけ出すことは難しい。序章にも書いた通り、『浸透戦術』という言葉そのものは、一般的な戦術であり、有史以来ずっと使われてきた単語だからである。しかし、本項で扱う『浸透戦術』という語がGoughのこの記述と出会うにはもうひとつ、成長過程を得る必要がある。その成長は、先にも述べた直接Goughに会った経験があり、彼に影響されたと考えられる、Liddell Hartが主たる役割を果たした。

Robinsonによると、Liddell Hartは『浸透戦術』と『春季攻勢におけるドイツ軍の成功』を結びつけた上、自身の間接的アプローチ。この最たるものがLiddell Hartの"Future of Infantry"における記述で、

これらの(ドイツ軍の)戦術の根底にある考え方は、広く分散した複数の小集団が敵の前線を探り、その弱点を発見し、次に防御陣地と機関銃の間隙に入り込むというものであった。先頭集団が敵の陣地を突き進む間、取り残された敵の「離島」は救援から遮断され、先頭集団の後ろから来る予備部隊の新しい部隊によって側面から攻撃され、撃破されることになった。

[68]

防御の隙間、隙間、空隙から侵入しようとするものである。つまり、浸透させる、潜入させるということである。強固な点を攻撃しないようにして、迂回し、時には見過ごす……敵の最小抵抗経路を通ることが目的であった。

[69]

この記述と実際の突撃隊戦術との差異そのものの問題に関しては既に述べた。しかし、ここで重要なのは、一般的な『浸透戦術』と呼ばれるものの雛形がほぼ完全な形にてここに揃っているということである。同時期にはこの他にも、G. C. Wynne大尉による『浸透戦術』の記述や、大衆作家であるJohn Buchanによる『浸透戦術』という言葉の使用などがあるが、これらは前者ではフランス軍起源のをドイツ軍がコピーしたという記述や、後者では物語上のマクガフィンでしかなく、一方のLiddell Hartの記述は現代で語り継がれている形ほぼそのままであるため、これらの他の記述は『浸透戦術』の起源とされるものの複雑化や言葉や理論そのものの大衆化に寄与しただけにとどまったと考えられる。[70]

そして、このLiddell Hartの記述こそが、『浸透戦術という幻』の形成の終点たる人物が引用したものであった。

・10・

戦闘機マフィア時代を終え、より大きな戦略次元における理論、後の機動戦ドクトリン、を考案していた頃のJohn Boyd大佐のインスピレーション元の多くは、Liddell HartやJ.F.C.Fullerといった戦間期の軍事思想家や第二次世界大戦におけるドイツ軍であった。この中で、Liddell Hartは特別な位置を締めた。第一に、彼自身の間接的アプローチ理論は、Boydが考えていた、「敵戦力を撃破することなく、敵の思考能力を破壊し、戦闘能力を奪う」という理論にかなり近いものであった上、Liddell Hartは通訳・翻訳・インタビューワーとして、第二次世界大戦後のドイツ軍のドクトリンを紹介していたからである。[71][72]

しかしここで、Boydが利用した翻訳史料の多くに、Liddell Hartの意識的な史料の曲解がその魔の手を伸ばしていた。Liddell Hartは戦間期の自分の理論が必ずしも第二次世界中の実際の現象と一致していないことによりその名誉を失っており、汚名返上の為、第二次世界大戦において大きな成功を収めたドイツ軍の電撃戦が自身の間接的アプローチの影響下にあった事を示すのに躍起になっていた。一方、ドイツ軍の将校たち、特にSSに所属していた者たち、は自身の名誉挽回と、金銭的な困難により、Liddell Hartの庇護を必要としていた。[73]この両者は戦後、奇妙な共犯関係となり、Liddell Hartはドイツ軍の将軍たち、特にGuderianは、の伝記やインタビューを出版し、彼らの名誉を守る一方、ドイツの将軍たちは戦間期におけるLiddell Hartの影響を盛んに宣伝した。実際の第二次世界のドイツ軍のドクトリン形成において、Liddell Hartが果たした役割は限定的であったのにも関わらず、彼によって英語圏へもたらされた史料の多くでは彼は中心的な役割を果たしていることになっていた。[74]

Boyd自身の著作は殆ど残っていないため、幾つかの困難はあるものの、しかし口伝されるBoydの理論では、BoydがLiddell Hartの手が加わった『電撃戦』理論を信じている事は明らかであった。その把握の鍵となるのは、これまでにも述べてきた、三つの重要要素である。第一に、彼は突撃隊戦術を『浸透戦術』と呼び、第二に彼はその戦術がvon Hutierによって生み出されたものと呼び、そして第三に、それは敵の撃破ではなく、迂回からの後方撹乱を目的としたものであると呼んだ。本項の第一章で見たように、突撃隊戦術自体に浸透的な要素があったのは事実であるが、それを総じて『浸透戦術』と呼ぶことにには語弊が存在し、一つ目の重要要素は妥当ではないことがわかる。また、第二章で見たように、von Hutierが1918年の春季攻勢にて小さくない役割を果たしたことは事実だが、それ以上に重要だったのは、英第五軍を取り巻く各種政治・戦略的状況で、von Hutierが新しい戦術を生み出したから第五軍は大きな損害を被ったということはかなりの論の飛躍が必要であり、第二点が不適切であることがわかる。そして、ここ第三章と第一章の一部で見たように、突撃隊戦術はVernichtungsschlachtの精神に則り、敵を撃破するためのものであり、迂回、浸透を通じた後方撹乱を主目的とするのは、Liddell Hartの意図がかかったものであるため第三点は間違った知識であることがわかる。それは、この理論を参考に作られたとされる『電撃戦』が幻であったように、歴史的事実に間違いと誤解と意図的な偽知識が散りばめられた、空想上の産物、『幻』であった。

結びに変えて

歴史において、二つの異なる潮流が相交わる事は稀である。かつてはスキピオとハンニバルの会合があったとされたが、これはプルタルコスによる創作であるとされて久しい。しかし、ハンニバルの理想を追求した『カンナエの原則』の末裔である第一次世界大戦のドイツ軍と、かつてスキピオがそうしたように、その末裔らを参考にして新しいドクトリンを作り上げたアメリカ人たちは、実際にバージニア州の片隅にある会議室にて集まっていた。そして、あの会議室にたまたま居合わせた民間人であるDunnigan氏が、ふと抱いた疑問を口に出してくれた為、その集まりは、出会いへと発展した。そして、この間違った知識によって生まれた『浸透戦術という幻』と、実際の突撃隊戦術の会合は、冒頭で描かれたように、違う意味での驚愕に満ちていた。

そして、冒頭の台詞の後、Balck将軍はこう続けた。

我々は大量の砲兵にて敵を制圧したあと、普通に展開した。このような戦術など使ったことはない。

[75]

プルタルコスが語る二人の英雄の会合と異なり、これはあまりにも平凡な答えであったが、真実とは得てしてそのようなものであろう。

参考文献

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