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ナポレオンのあとがき:流刑地から見返すワーテルローの戦い

※この記事はリドリー・スコット監督作品『ナポレオン』、ならびに長谷川先生作、漫画『ナポレオン~覇道進撃~』のネタバレを含みます※


1815年6月18日、ナポレオンはワーテルローの戦いに破れ、フランスの帝位を追われることになる。

ナポレオンを破った連合軍はパリへと凱旋する一方、かつての皇帝がもう二度と同じような企てを行えぬよう、ナポレオンを絶海の孤島、セントヘレナ島へと島流しする。

南大西洋の孤島、セントヘレナの住人となったナポレオンであったが、人生の殆どを激動の中で過ごした彼にとって、平穏な生活は、存外に悪いものではなかった。彼は比較的すぐ、そこでの生活に順応する。

そこで彼は、監視と冷遇に苦しみながらも、カメを飼ったり、畑で野菜を育てたり、本や新聞を読んだり、乗馬を楽しんだりと、色々な老人らしい趣味に没頭する。その趣味の中の一つが、彼の番人であるものの彼に敬意を払う一部の人たちと、戦争に関する会話に花を咲かせることであった。

そして流石は偉大なる皇帝陛下。そのような他愛のない会話ですら、興味をもった話し相手は幾人かおり、本稿の原著の著者のバリー・オミーラのように、それらを書き留める者もそれなりにいた。

彼が好んだテーマはいくつかあったが、その一つが、彼がセントヘレナ島に来るに至った理由について語ることであった。彼は、ワーテルローについて話すきっかけがあるならば、かきつけて流暢に話すのだった。多くの場合、いかにして彼があの日、本来は勝つべくで、そしていかに、敵にも失敗があったか弁明するために…

そのようなよくある日の一つにて、ナポレオンは、また、ワーテルローの戦いに文句をつけ始める。

君はこの間、ワーテルローの戦いについての本を持ってきてくれたな。君が持ってきた本の作者によるとは、私は大馬鹿者で大陸軍はどろぼうの集まりらしい。曰く、私は軍人が犯しうる最大のミスを犯したそうだ。あの日、森を背後においたウェリントン卿を攻撃したことがそれだ。私に言わせれば、ミスを犯したのはウェリントン卿で、それは森を背後において私と戦ったことだ。

"Napoleon in Exile", Book 1, p479

このように、ただあれにかきつけ、文句をつける日もあったが、より詳しく、戦闘の様相と作戦について話す日もあった。そのような気分のある日、ナポレオンは饒舌に語り始める。「あの戦いの作戦は…」

後世の歴史家の目で見るのならば、ウェリントン卿の将軍としての資質を示すものではないだろう。まず第一に、彼は軍が分断された状態で戦いを始めるべきではなかった。彼らは15日の前(訳注:カトル・ブラとリニーの戦いの前日)に軍を合流させ、野営しているべきであった。次に、戦った場所が悪かった。何故ならば、もし彼が敗北することがあったのであれば、彼が退却する方法はなかったからだ。彼の後方には森へと続く道が一本しかなかったのだ。また、彼は、自ら戦役に向かう前に野戦軍を撃破されるかもしれないという過ちを犯した。彼が会戦に引きずり出されるべきではなかったし、それは彼が奇襲を受けてしまったから起こったことであった。15日、私はチャルレロイ(リニー)におり、彼が知らぬ内にプロイセン軍を撃破した。私は彼から48時間分の行軍という戦果を得ていたのだ。もし私の将軍たちの幾人かがかつて見せたような情熱や才覚を見せてくれていたのであれば、会戦を挑むまでもなく、彼の軍を野営地にて撃破することができたであろう。しかし、私は軍の細部にまで手を施す時間がなかった。

私は彼ら(訳注:イギリス軍とプロイセン軍)を各個撃破するにあたって、私は奇襲に頼った。私はビューロー(訳注:プロイセンの将軍。ワーテルローの戦いにてフランス軍の側面を攻撃したプロイセン第四軍団を率いていた)が迫っていることに午前11時には気づいていたが、私はそれを無視した。その時、私は百回戦えば内、八十回は勝てる見込みがあったのだ。敵軍の数のほうが多かろうが、私は自らの勝利を確信していた。私には七万の兵がおり、内一万五千は機兵であった。また、同時に、私には二百五十の砲があった。しかし、私の兵たちは精兵であり、十二万の軍であろうと勝利できると私は評価した。(訳注:ここでナポレオンが述べている自軍の数は現代受け入れらているワーテルロー戦でのフランス軍の数値と概ね一致している)ここで、ウェリントン卿は九万の軍と二百五十の砲を有しており、ビュローの三万の軍と合わせ十二万となった。(訳注:総数ではナポレオンの十二万の評価は概ね正しいものの、実際のウェリントンの軍はより少なく、七万程度であり、一方のビュローの第四軍団を含むプロイセン軍は五万程度であった)その中でも、我が兵に匹敵しうる兵はイギリス兵しかいなかった。他の兵たちは私をあまり悩ませなかった。私は内、イギリス兵は三万五千から四万程度であろうと見積もった。私は彼らは勇敢で、我軍の兵たちと同等の技量を有していると考えていた。イギリス兵の勇猛さは大陸にもよく伝わっていたからだ。また、君の国(訳注:イギリス)は勇気と活力に満ちていた。一方で、プロイセン、ベルギーと他の国々の人々(訳注:オラニエ公麾下のオランダ=ベルギー軍ならびに、イギリスと同君連合を組んでいたハノーファー軍)は半数のフランス人で戦えると考えていた。なので私はわずか三万四千をプロイセン軍の相手に送ったに留まった。

あの日、我々が敗北した主要因は、第一に、グルーシーの怠慢と命令遂行の意思の欠如。次に、予備として残しており、どんな場合であっても持ち場を離れるように命じていたはずのギヨー将軍麾下の騎乗擲弾兵ならびに騎兵が、私の知らぬ間に投入されてしまっていたことだ。彼らは一個軍団にてその倍の敵を跳ね返せるであろう勇姿たちであったが、最後の突撃にて我が兵が後退した際、英軍の騎兵の前進を阻みえる騎兵が一つも残っていなかったのだ。このため、英軍の攻撃は成功し、全ては失われた。敗走する兵士たちを奮起させる意味はなかった。若い将軍とて軍全体に一つも予備を残さないようなミスは侵さないだろう。しかし、ここでは、裏切りによるものだったにせよ、それが起きた。実際に裏切りがあったのかは、私は知らないが。この二つこそがワーテルローの戦いが敗北に終わった主因である。

もしウェリントン卿が野戦築城を始めていたのであれば、私は彼を攻撃することはなかっただろう。将軍として、彼の計画は才能を感じさせるものではなかった。たしかに彼は勇猛さと屈強さを示したが、そのことは退路の確保を怠ったことを補えるものではない。もし彼が退却しなければならない状況に追い込まれたのであれば、彼の軍の一兵たりとも戦場から逃げおおせたものはいなかっただろう。彼は、第一に、勇猛かつ屈強に戦ったイギリス兵たちに救われ、次に戦場に到着したブリュッヒャーに救われた。彼の勝利の多くは兵たちが勝ち取ったものであり、貢献の度合いで言えばブリュッヒャーはウェリントンよりも勝利に貢献しただろう。彼は前日の敗戦にも関わらず、軍を再編成し、夕刻には戦いに向かっていたのだから。

"Napoleon in Exile", Book 1, p463-466

また別日、より会話を楽しむ気分の日であった時には、このような会話をしている。

私がワーテルローに勝っていたのならば、イギリスはどんな状況になっていただろうか?君の若人たちは戦火に散り、一人たりとも、ウェリントン卿も、逃げ出すことは叶わなかっただろう。

彼には逃げ道はなかった。彼は軍と共に散るしかなかった。ああ、もしあの時戦場に来たのが、プロイセン人ではなく、グルーシーだったならば。

たしかに、あの時、私はしばしあれがプロイセン軍ではなく、グルーシーだったと信じていた。今となってもあれがプロイセンの師団でグルーシーでなかったのか、疑問に思っている。

原著者:「もしプロイセン軍もグルーシーも戦場にたどり着かなかったのであれば、戦いは痛み分けに終わったと思いませんか?」

そうは思わない。イギリス軍は撃破されていただろう。昼頃には彼らは敗北していたはずだ。しかし、幸運、いや、どちらかというと運命によって、ウェリントン卿こそが勝利すべきとされたのだろう。私は彼が私との戦いに応じたことが信じられなかった。もし彼がすべきであったようにアントワープへと後退していたのならば、(訳注:オーストリア・ロシアの増援が到着し)私は三十か四十万の軍に囲まれることになったであろうからだ。戦いに応じたことで、私には機会が与えられたのだ。イギリス軍とプロイセン軍が分かつたのは最大の失敗であっただろう。彼らは一軍として運用されるべきであり、私は彼らが別々に行動していた理由が理解できない。また、ウェリントン卿が退路なき地にて勝負に応じたのも失敗だ。敗北したならば彼は全てを失っていただろう。たしかに彼の後ろには森林があったが、そこにたどり着くには一本の道しかなかった。また、彼は私に奇襲される失敗も犯した。これも大きな過ちだ。彼は私が攻撃することであろうことを見越して6月頃から野営していたのにも関わらず、奇襲を受けたのだ。彼は全てを失いえた。しかし、彼はとても幸運だった。彼を運命が救ったのだ。そして、彼がしたことなしたこと全てが称賛されることであろう。

私の意図は彼の軍を攻撃し、撃破することであった。これが成されたならば、英国政治は大きく傾いていたことであろう。四万もの若人の命が散らされたことは、国民の心を動かし、彼らは和睦に動いたに違いない。英国民はこういうだろう。『フランスの玉座に座るのが、ルイであろうが、ナポレオンであろうが、俺たちが気にすべきことなのか?その為に払うに値する犠牲なのか?いや、俺たちは十分に苦しんだ。これは俺たちの仕事じゃない。奴ら自身に決めさせよう』、と。彼らは講和しただろう。そしたならば、ザクセン、バイエルン、ベルギー、ヴュルテンベルクの民は私に味方しただろう。そして、反仏同盟はイギリスなしには機能しない。ロシアは和睦に応じただろうし、私は平穏にフランスの玉座に座ったことだろう。平和は長続きするものだっただろう。それこそ、パリ条約のあと、フランスに何が出来た?他国はフランスの何に恐怖するのだろう?

これらが、私がイギリス軍を攻撃した理由だ。既に私はプロイセン軍を撃破しており、十二時前には私は成功しただろう。言わなければならないが、全ては私の手にあったのだ。しかし、悪運と運命が覆した。イギリス兵はまちがいなく勇猛に戦ったし、何人たりともそれの否定はできない。しかし、それでも彼らは撃破されていたことだろう。」

"Napoleon in Exile", Book 1, p174-176

もちろん、ナポレオンは、もし勝っていたら、の妄想も怠らない。

原著者:「ワーテルローの戦いで勝利を収めていたのならば、あなたはパリ条約に調印しましたか?」

私は調印していたことだろう。もちろん、自分から提示することはなかっただろうし、私は調印する機会が訪れる前に退位することになったが、既にあるのを見つけたのならば、私は守ったことだろう。フランスには休息が必要だったからな。

"Napoleon in Exile", Book 1, p216

しかし、現実には、彼らは負けてしまった。当然、偉大なるナポレオンは、偉大なるナポレオンが戦いに敗れるには、なにかおかしなことがあったに違いないと考える。そして、その中で彼が盲信し始めるのは、裏切り者の存在である。彼は、様々な人物を、裏切り者の候補として考えては、棄却する。

…グルーシーが無能でなければ、あの日私は勝っていたのにな。

原著者:「グルーシーは意図的に裏切っていたのでは?」

いや、いや、それはない。彼からはより活力を求めたが……裏切ったのはきっと参謀たちだと私は考える。私がグルーシーに送った伝令の参謀たちが私を裏切ったに違いない。それで敵軍と内通したのだ。もちろん、証拠はない。あれ以来グルーシーに会えていないのだから。

原著者:「ではスールトが裏切ったのでは?」

それは考えた。しかし、大方の予想と異なり、スールトはルイすら裏切らなかったのだ。それに、あいつはフランス帰還前に私と内通していたわけでもない。私が帰還してからしばらくの間、あいつは私が狂っていて、なにをやっているかわからないのだと思っていたくらいだ。それにスールトが置かれた状況は悪すぎた。

"Napoleon in Exile", Book 1, p385-386

将軍たちではなければ、兵たちだろうか、ナポレオンは疑い始めるが、すぐにそれも棄却する。

ワーテルローでは、一人の兵たりとも私を裏切らなかった。裏切りがなんにせよ、それは将軍たちのもので、兵や連隊の士官たちは関係なかった。

"Napoleon in Exile", Book1, p387

将軍を疑えば将校のせいにし、兵、将校を疑えば、将軍を疑う。結局、彼は誰か一人の裏切り者を見出さずに終わる。誰かを裏切り者と断じるには、彼は、部下を、大陸軍を愛しすぎていた。

一方、このような興味深いやり取りも残っている。ミュラーの副官が、ミュラーとのやり取りをまとめた本を出した時、ナポレオンは興味津々にてその本について著者に聞きに行く。

それで、私についてどう書いてある?

原著者:「私はまだその本を読んでおらず、直接は言えぬ者の、ナポレオンについて悪く書いてある」

私が悪く言われている?いや、大丈夫だ。それには慣れている(笑)(訳注:かわいい)で、なんて書いてある?

原著者:「ミュラーの分析によると、ワーテルローの敗戦は騎兵が正しく運用されていなかったことで、彼がワーテルローに騎兵指揮官であったら、必ずやナポレオンが勝利したと書いてある」

それは有り得る話だ。ミュラーは世界最高の騎兵士官だった。彼は突撃に活力を与えてくれたことだろう。ワーテルローでは、活力が望まれていたのにも関わらず、そこにはごくわずかしかなかった。彼は大隊を二個、三個、粉砕することができただろう。ミュラーならやり遂げてくれたに違いない。

"Napoleon in Exile", Book 2, p61

しかし、これらの文句や、考察や、裏切り者さがしと、違う感情にて、ワーテルローについて語ることも、あった。

後悔、そして未練。それらの感情に突き動かされたかつての皇帝が語るワーテルローは、また別の情景を催す。

私が何をすべきであったかについては、諸説ある。多くは私は最後まで戦うべきであったという。他の者達は運が尽きたのだと、ワーテルローにより私の軍人としての栄光の道は閉ざされたのだという。私自身の気持ちだと、私はワーテルローで死ぬべきだったのだと思う。もう少し、前でもいい。もし私がモスクワで死ねたのならば、私は歴史上、史上最高の征服者として死ねただろう。しかし幸運の女神は私に微笑むのをやめてしまった。そこから先は概ね、後退ばかりを体験し、ついには被征服者となったわけだ。私はワーテルローで死ぬべきだったのだ。J'aurais dû mourir à Waterloo. しかし、皮肉なことに、私が最も死を望んだ時、死は私を見放したのだ。私の前後左右で人がみんな死んでいったのに、どこにも私のための銃弾はなかったのだ。

"Napoleon in Exile", Book 2, p69

1821年、5月5日、ナポレオンはこの世を去る。

最後の言葉には諸説があるが、それは、「軍、前衛」であったとされることが多い。

彼には多くの側面があったが、死に際の言葉に考えるに、おそらく最も本質に近かったのは、やはり軍人であり、そして征服者としてのナポレオンだったのだろう。


故に、彼が最後、自身が史上最高の征服者として歴史に残ることを望み、その機会が失われたことを嘆いたのは不思議なことではない。

しかし、その嘆きが正当であったかには、疑問符がつく。

今日でもなお、彼は史上最高の征服者として知られており、彼の生き様は、不朽の題材として、時を超え描かれ続けている。

ナポレオンの嘆きとは裏腹、彼の名は死してなお、永久に語り継がれている最中にある。


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出典
"Napoleon in Exile: Or, A Voice from St. Helena", Book 1 & 2, Barry Edward O'Meara

引用文一人称化の為、多少の訳の原文からの逸脱あり。

参考文献
"La patrie en danger 祖国は危機にあり!" https://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/

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