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「あの時は病んでいた」ということに病み終えてから気付く

暑い。北海道住みだけど問答無用に暑い。
理由は単純明快で、部屋にエアコンが無いからである(扇風機はあるよ)
暑さは気力と体力を奪っていく。

今日も暑くて、前々からやろうと思っていたゲーム配信のモチベが
無くなってしまって自分の不甲斐なさに凹んだ。
先々週くらいに買った「天穂のサクナヒメ」の配信を
今日はやろう明日こそやろうと毎日ひっそりと決心しては潰えている。
俺はなんてダメなんだろうと思った。
というわけでせめて今日は日記でも書こうかなと至った。

なお、本当に何もできていないわけではない。
やらなきゃいけない手続きとかはやってるし
仕事がある日は仕事に行っている。
サクナヒメの配信に関しては別に義務ではないので甘えが生じてしまう。

さらに言えば本当は自分の不甲斐なさにそこまで凹んでいない。
まず、いま俺は病んでいない。
去年に比べると明らかに自分の精神状態が違う。

最近よく思うことがある。
「あの時本気で病んでいたんだ」と。
闇を潜り抜けた後にそれがはっきりと解った。
人は、病み終わった後に気付くのだと知った。

去年のnoteの記事にも書いていたが
俺は呪われていた。
嫌なことだらけで、何をするのもつらくて、仕事に行くのもしんどくて、
毎日通勤の足取りが重くて、この状態マジでいつまで続くんだろうという
絶望で毎日頭がおかしくなりそうな感覚に陥っていた。
俺が呪われ始めていた頃、気にかけてくれた友達が毎週俺を遊びに誘ってくれていて、それで俺も気が紛れていたが
友達曰く「あの頃のテンションはほんとに自殺するかと思ったレベルだった」とのこと。
さすがにそこまで表に出るくらい病んでいたとは自分でも気付かなかった。
思えば、去年は9月にスプラトゥーン3が出て
大好きなゲームが出て幸せだなぁもうこれだけあれば一生遊んで嫌なこと全部忘れられるなぁ、なんて思っていたけど
ぶっちゃけそんなわけないよな、強がりだよなって本音では自覚していて。
もちろんスプラ3はすごく面白かったんだけど、
もし自分があの時幸せだったらもっと心の底から我を忘れて楽しめていたはずなのである。


しかしその絶望は、「年越し」をきっかけに徐々に希望へと変わっていった。
年末年始にある出逢いがあって、そこで元気をもらったり
2023年から急に仕事が上手くいくようになったり、
ひょんなことから転職の話が舞い込んできたり。

これほんとにオカルトみたいなんだけど、
昔から1年周期で自分の人生の運気がガッツリ変わっている。
去年は間違いなく最悪レベルの1年だったけど、
今年はそんな自分に救いを差し伸べてくれるような事象が多い。

いま俺は部屋が暑くてそれだけでもう嫌な気分になってるけど、
改めて病んでいたあの頃を思い出すと
今は自分は新しい環境を与えられて幸せだってことを嚙み締めなきゃな、と
戒めるきっかけになる。

幸せとは何だろうかと昔からよく考える。
っていうか誰しもがうんざりするぐらい考えて沼にハマる議題だけど。
明確な答えは出ないし、何なら答えはいくらでもある。
なんかうまい結論を出せるようになりたいが
幸せの定義とは千差万別なのでその結論を出すのは相当難しい。

テレビでお笑い芸人が上手いツッコミしてそこにツボれる自分がいたらそれだけで幸せ。
面白いドラマ見つけて次が気になり始めたらもう幸せ。
猛暑から抜け出してコンビニに入ったら冷房浴びたら幸せ。
バス停に着いた途端にバスがちょうど来たら幸せ。

こんな風にいくらでも日常に幸せはあるし、
もう幸せ大喜利とか幸せ古今東西をしたくなってきたまであるが、
病んでた時は俺はそんなことに幸せを感じられなかった気がする。

要約すると、
「本来幸せであることを幸せに思えなくなったら、もう幸せではない」
のであって、つまりやっぱ生きてて健康であれば幸せなのかもしんない。


そしてまた明日から「今日もサクナヒメ配信ができなかった」と凹む日々が
始まるのである。
めっちゃ長いよくわからん記事を書いて
サクナヒメ配信ができない免罪符を発行しただけな気がする。

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