趣と効率

『野菊の墓』という伊藤左千夫の小説がある。あらすじは青空文庫にもある作品なので省くが、これに記載されている内容を報告書にまとめれば、Wordを1ページまるまる使うことも無くすぐ纏まるだろう。現代は効率が重視される。とあるアニメで、AIという設定のキャラクターがダンテの『神曲』を読み、そのことを他のAIのキャラクターに「非効率的だ、データとして取り込んだ方が早い」と揶揄されるシーンがあった気がする(二次創作かもしれない。記憶が曖昧だ)。例え話などのノイズが多く含まれた文字の羅列よりも、整然と理論が並んだものを取り込んだ方が早いのは確実だ。でも、それで本当にいいのだろうか?

人間の感情に寂しさや孤独がなければ、これほどまでに文学が発展しなかったと思う。芥川龍之介の作品の多くは『鼻』に描かれたような生きる人間の醜さ(それは芥川自身が一番体験していたことなのかもしれない)や、生きることそのものへの疑問を描いている。高校生の頃、青空文庫にある芥川龍之介の作品を全て読んで気づいたのは、彼はとても寂しがり屋で、ただそれを表現する力に恵まれた、だからこそその寂しさが際立って感じられた、とても繊細な人だということだった。繊細でないと自己の存在そのものに傷つくことは難しいかもしれない。

今朝(2023年8月12日)、瞼の裏で明滅する光を見た。パッとついては消え、またつくを繰り返す電気信号をデータとしてでなく生の光として認識した瞬間であった。

最近スランプ気味だ。書きたくても書きたくても書けない。出てこない。私は"おりてくる"……いわゆる"名状しがたいもの"によってinspireされるタイプなので、"おりて"こなければなにも出力できない。今もそんな事実をネタに2日前の分の投稿を書いているくらいだ。

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