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「頑張らないで、頑張る」ということ

時間は生命


自分自身の中の未消化の課題
があるのでは、と気が付いて、それにどう向き合うか。

向き合うか、向き合わないかは、私の場合、あまり悩まない。
時間がもったいないからだ。

課題がある、未消化がある、それが自分の日々に影響を及ぼしている、身近な人にも影響を及ぼしてしまっているなら、すぐにでも取り掛かりたい気持ちになる。

向き合うか、向き合わないか、それ自体は悩まない。
どうにかしたいという欲求に従って、決断などと大袈裟に思う以前に、即決断しているように思う。

「どうしたら?」と思う。

過去にはたくさん執着して堂々巡りして悩んできたし、今でも執着心がないわけではないが、それが、いずれはどうにか出来るものであることを知っている気持ちを尊重する。

課題として感じられたこと自体が、きっと、いつかは解決への糸口なのだから。

モヤモヤした違和感であれ、明確に感じられる何かであれ、気が付いていたり自覚がなければ、ずっと、そのままかもしれないのだから。

即決断≠即解決


だからといって、どう向き合うか、どう消化するかとなると、これは時間がかかるものもあるだろう。少なくないとも言える。

即決断するとはいえ、即解決をしようとするのは時期早々というだけでなく、短絡的で乱雑なパチモノになる可能性が大きい。

そのような類にすがるような気持ちになって行動してきたこともあったけれど、散々うんざりしてきたし、もう私は望まない。

もちろん、そんなインスタントなものは巷に溢れ続けているようにも見えるけれど、なぜ、それでどうにか出来ると、いつまでも思えるのだろうか…

だから、余計に浪費して、徒労感に苛まれて、ネガティブな自信のなさという心のクセが強化されてしまうのではないだろうか…

その人の旅路は、他人には分からない


何十年も蓄積されて来たチリのようなものでも、積もれば山となり、山は自らから流れる水で川をつくってきた。

それは意図した流れではなかったかも知れないし、もしかしたら、どこかで意図していたのかも分からない。

いずれだとしても、生きている限り、生きている流れはつくって来た。

望む望まない、どちらだったとしても、その流れに乗るかのように生きて来たところも、はっきりとはしないが、あるような気がする。

今よりずっと選択肢も視野も狭かった私は、そうするしかなかった流れも多かったとも思う。

流れに乗り、さまざまな出逢いが、ときにはゆっくりと、時には激しくあり、少し思い出すだけでもかけ巡るプチ走馬灯のようだ。

それは猫たちや恋愛だけに限らず、仕事関係でもあり、クリエィティブな刺激を受ける関係でもあり、または友人でもあった。

自分のマイノリティさから、今の自身がつくられてきた要素は多いと思える。

それらは本当に多様な側面を醸し出すものだと、自分でも予想外に感嘆してしまうときも出てくるようになって来た。

マイナスがあったからこそのプラスも、たくさん感じさせてもらえてきたし、マイナスがあったからこその、よりマイナスもたくさん感じてきた。

課題の直面化の場面


それでも課題は残っていて、自己が承認されるほどにそれは見落としがちになるかもしれないし、逆に明るみに直面化して、感じられる場面も出てくるなと感じる。

それが嫌なのではないし、嫌なときもある。
さっきから、両側面の反語な書き方ばかりしているけれど。

明確化・直面化するときの瞬間、それが、どのような場面で、そこに、どのような人がいたか、どんなマインドで思いで対話がなされていたかによって違う。

その人の承認欲求を満たすための心理的な利得の搾取や利用、ましてや何らかの操作、さらには、もし悪意までを持って突きつけて来られたことも、過去にはあった。

そのような人とは、もはや交流は意識的に途絶えさせているが、そのときに付いた染みは、いまだ拭えないものがあり呼吸が苦しく感じる時もある。

そのような気配には、私なりに敏感になってきたのかもしれない。

今は、そんなキナ臭い人が寄ってくることは滅多になくて、寄ってきても離れていくようになってきたし、その面ではとても生きやすくなってきた。

傾聴マインドで関わり合うということ


傾聴マインドについては、私も様々、感じて思うところがあるのを、また記事にしていければと思う。

傾聴の関わり合いで、それこそ安心や安全を真摯に考慮している場では、嫌な気持ちは、めったに感じにくく、前述のような場面とは雲泥の違いがある。

その上で向き合いやすくなってきて、意固地になって破滅的になったり、破滅的にまでならなかったとしても、歪めたりズレていったりすることなく、本質を感じ取ろうという気持ちになれる。

繰り返しになるようだが、未消化のものが身近な人間関係に影響を及ぼしている場合、私は目を逸らしているどころではないと思う。

だが、それは時には、とても深く突き刺さる鋭利さを内在している。
だからこそ、暖かい傾聴マインドの場であることが必要となる。
それでなければ、痛すぎて進めないこともあるからだ。

それで無意識に目を逸らしてしまったり、気が付かなかったり、または、気が付かないようにしている、そんな自分に気が付かないようにしてしまうところが、もしかしたら、あるかもしれない。

つまり、知らず知らずの誤魔化してしまうところもあるのだから、わざわざ逃げているのは勿体ないと、私は自分に対しては思う。

放っておいても、逃げている自分はおるよ。
向かっていこうとしていてもね。
どこかから、そんな声が聞こえてきそうだからだ。

だから、向かっていこうとしているのは、最小限、必要なんだと、私は思うようにしている。
でも、それは自分を痛めつけたいからではない。

限られた生命、生き急ぐぐらいで、ちょうどいいのかも、最近、目にしたこの言葉にも惹かれた。


幸福感と嫌悪感


自分のマイノリティー要素と、身近な人間のマイノリティー要素、そこからつくられて来た、それぞれの自我。

それらが噛み合っている時は幸福感にもなりやすいけれど、それらが反発し合い、反発だけでなく嫌悪感にまで育ってしまうような時は、果たして、どうしたらいいのだろう。

頭で考えたり、もっともな理屈を振りかざされたって気持ち悪い。
誰かの自己満足のために、消化されてるみたいな気にすらなってくる。

それは、本質的には何の解決にもならないどころか、より、ややこしく顕在化を強めさせる、モヤァとした何か。

たとえ、それが、ほんの気休めになることは、たまにあったとしても、ズレるほどにむせぶような煙の気持ち悪さを、私は体感的に感じてしまう。

大切に思うのは本質であって、そのために時間をかける、その時間しかない。

そうしてクリーンに考えていこうと、自分の中での一線を考えて、自らの問題を誰かの承認欲求を満たすためのものにはされないように、内側で捉えたとしよう。

では、前置きが長くなったが、本題。


前述した

「自分のマイノリティー要素と、身近な人間のマイノリティー要素、そこからつくられて来た、それぞれの自我。
それらが噛み合っている時は幸福感にもなりやすいけれど、それらが反発し合い、反発だけでなく嫌悪感にまで育ってしまうような時は、果たして、どうしたらいいのだろう。」

これは愛され方によるものだと思える。
愛され方の歪みや、そこからの欠乏感がもたらす自動思考なのかもしれない。

マイノリティーゆえに、より陥ってしまいやすい良きにも悪しにも、どちらであったとしても、どこかで持ちかねない「特別感」

それは「優越感」であったり「疾病利得」であったり、その逆に「劣等感」であったり「欠乏感」であったり。

そうなると、これはWin-Lose、どちらかが勝って、どちらかが負けるかのような構図を生み出す。

価値観の共有もなければ、相互尊重も相互理解もなく、ただ一方的に吸われたり流れていく構図とも言える。

人によっては、ただ気持ち悪い、不快な感覚がむくむくと湧き上がってくることもあるかもしれない。

いじめたほうは、いじめたことを忘れるけれども、いじめられたほうは、何年経っても忘れることが出来ないのと似ているかもしれない。

消化であり、昇華


それを1人で消化できる人は、どれほどいるのだろうか。

もしくは、ときに傾聴などのお手伝いを受ければ、あとはセルフで進める人もたまにいれば、カウンセリングを要する人もいるかもしれない。

どのような進め方をするとしても、私が望むのは消化であり、昇華。

この「消化・昇華」は何年も前に、ずっと若い頃に思い付いたものだったが、いまだに忘れることなく思っている。

世の中には「欠乏感」や「愛情飢餓感」などの状態を体験して来て、それらを引きずっている人たちへの様々なアプローチが、実に沢山ある。

それは商業ベースに乗っているものも数多いけれど、そうであろうとなかろうと、何だろうと大切なのは、自身にとって役に立つかどうか。

役に立たせるかどうかは自分次第だとしても、そもそも偏った効果しか出せないものではなく、本質的に普遍的に通じるものかどうか。

あなたにしか通じないものは、私にはいらない。
下手したら、かえって害になってしまうかもしれない。

「頑張らないで、頑張る」ということ


さっき書いた「欠乏感」や「愛情飢餓感」

そもそも、この書き方で良かったのかすらも、まだ分からない。
なんとなく、違うような気もする。

丁寧に気持ちを探り、心を観ていこうとして、本当にセンシティブに、そっと紐解いていかないとならないもののような気がする。

もし、ここを雑に乱暴にしてしまうと、人生すらも瓦解するかのような気すらする。

そして、この慎重さは、ときに普遍的で多くの人にも、それぞれの心理であり得ることとも思う。

当たり前のようだけど、改めて感じて来た「急がない」ということ。

わざわざ、目を逸らそうとするほど暇ではないけれど、焦って、どうにかなるものでもない。

そう言えば、恩師がよく言っていたことを思い出した。

「焦らず、急ぐ」

あの頃は何度も脳裏に刷り込んでいたのに、いつからか何年振りに思い出しただろう。

気が付かせてくれたこと、感じさせてくれたこと、巡り巡って、また一歩、その巡り合わせがやって来たことに感謝を感じます。

「頑張らないで、頑張る」

大事なものを大切にするために…

頑張り過ぎて、大切な存在や関わりを、1つだけでなく失って来たのだから…

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