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王様・姫・豚・乞食 (107)

王様・姫・豚・乞食。これ何だっけとゆっくり考えてみたところ、指遊びのようなものだと思い出した。手のひらを前に出して、人の名前を振り分けていく。順番は親指、指の股、人差し指、指の股、中指、指の股、薬指、指の股、小指。具体的に例を出すと

たてかわだんきち

(た)親指(て)指の股(か)人差し指(わ)指の股(だ)中指(ん)指の股(き)薬指(ち)指の股

この場合”たてかわだんきち“は薬指と小指の間の指の股となる。
因みに指の股のことを指間腔と言うらしい。
魔閃光や気功砲のようだが、ただの指の股である。

次にここに王様・姫・豚・乞食を当てはめる。“たてかわだんきち“は四文字以上なので、王様・姫・豚・乞食を繰り返す。

(た)親指:王様(て)指の股:姫(か)人差し指:豚(わ)指の股:乞食(だ)中指:王様(ん)指の股:姫(き)薬指:豚(ち)指の股:乞食

名前の最後である“ん“のところに当たるのが乞食なので、“たてかわだんきち“は乞食となる

これは子供の遊びであり、現実“たてかわだんきち“さんは乞食ではない。無邪気ななかに直接的な言葉を混ぜるのが、子供の遊びの特徴の一つである。同じようなもので天国・地獄・大地獄というものがあり、この場合は“たてかわだんきち“は地獄行きとなる。

王様・姫・豚・乞食。これにはメロディがあり、調べてみると元ネタは「10人のインディアン(10 Little Injuns)」だそうだ。その昔アメリカのコミックショーで歌われていた。内容的には10人のインデアンの子が様々な理由(なかには残酷なものも)で一人ずつ減っていって、最後の女の子は嫁に行ったというようなものだ。当時のアメリカなので、差別的な表現だったであろうことは想像に難くない。ショーには残酷な部分もあるものだ。

元ネタは残酷なものだが、日本語訳は実に平和で、ただの数え歌になっている。

ひとりふたりさんにんいるよ
よにんごにんろくにんいるよ
しちにんはちにんきゅうにんいるよ
じゅうにんのインディアンぼーい

じゅうにんきゅうにんはちにんいるよ
しちにんろくにんごにんいるよ
よにんさんにんふたりいるよ
ひとりのインディアンがーる

ただ、いるというだけである。

さて王様・姫・豚・乞食。これは10人のインディアンの替え歌であるが、不思議な違和感を感じないだろうか。アメリカの「10 Little Injuns」は差別的である。インディアンの子が首の骨を折ったり、銃で撃たれたりする。対する日本の歌詞は穏やかで優しく、調和のようなものを求めているように感じる。それにもかかわらず日本の子供の替え歌は、豚や乞食などと直接的な表現をしている。それどころか王様や姫と並べることで、身分の違いやそれに準ずる差別的なものを連想させているのだ。何故穏やかな日本語訳からこのような直接的な替え歌が生まれたのだろうか。これに関しては養老孟司先生レベルに聞かなくては答えは出ないだろう。とはいえここまで書いて何らの答えも出さないのは責任放棄である。そこで、適当な感想のようなものだけ述べさせていただく。

王様・姫・豚・乞食、これは子供が作った替え歌だ。そうでないとしたらここから全て的外れなものになるが、恐らくそうだろう。子供というのは大人には無い感覚を持っている。とすると「10人のインディアン」という歌を聴いた時に、元ネタである「10 Little Injuns」の醸し出す差別的なコミックショーの雰囲気を感じ取ったのではないだろうか。恐らくその歌の持つ面白さ、メロディ、インディアンという言葉の響き、そういったものから何かを感じたのだ。子供を子供扱いした時に子供扱いされていると子供は感じることがある。それだけ感覚の優れた時期なのだ。その中の最も感覚の優れた子供が、替え歌を作り出し、またその面白さを子供達で共有したに違いない。
自分が子供の頃、そんなに優れた感覚を持っていたか。もう子供でないので思い出すことは難しい。しかし確かに、子供にしかわからない感覚というものがあるのは、何となく間違いないだろう。そしてそれはいつまでも持っていると、社会生活に不都合が生じる感覚なのかもしれない。座敷童子が子供にしか見えないのも仕方ないのである。

この連載は±3落語会事務局のウェブサイトにて掲載されているものです。 https://pm3rakugo.jimdofree.com