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キャプテン・ヨッコイとかいう謎プロジェクトについて。

はじめに

上記のような名前だったことがある。オレがソロ活動をしていたときの名前である。何だ、それ??? と思うでしょう。ダサッ!! とも思うでしょう。まぁ、グッとこらえてしばらく付き合っておくれよ。

というか、現在も一部の方々にはまだ呼ばれていたりするのだが、そうなのだ。キャプテン呼ばわりされて(して)いた時代があるのだ、このオレには。

正直言うと、ボカロを始めたばかりの頃は、この名前を知っている人がいたので、一切出さなかったのだが、もう誰も覚えてないだろうから開き直って書こうと思う。

その発生

多分、2002〜3年くらいからこの馬鹿げたソロ活動はスタートしている。

きっかけは……嘘みたいな話なのだが「北朝鮮のミサイル実験」である。当時、やたらと半島から日本海にミサイルが飛来しており、ニュースでもバンバン取り上げられていた。

何かの折に思ったのだ。「あ、オレ死ぬかもしれない」と。

そして思ったのだ。「=オレ、みたいな作品、何も残していない」と。

生命の危機に陥った時、人は自身の遺伝子を残そうとするらしいが、オレは肉体よりも精神の発達した生き物なので、ジーンではなくミームを残したいと思ったのだ。これ多分適当に言ってるけども。

楽曲を聴いてみよう

そこで当時としても旧式だろうインテル・セレロン搭載のPCを稼働させ、当時はSONYが代理店をやっていたACIDというソフトを使って、ソロアルバムを作り始めた。

こんなのである。

しかも当時はオーディオインターフェイスの存在も知らなかったため、マイクはカラオケ用マイクをPCのマイク端子に直結し、ギターはSANSAMPからマイク端子へ直結である。今であれば「そんなバカな……」と言いたくなる暴挙だが、結果として出来上がっているんだから仕方ない。

バックのドラムとベースはACIDに付属していたループサンプルをぶった切りまくって貼り付けたものである。ホント何も知らないって無敵だな。結果として出来上がってるんだから仕方ない。

なぜか発展した

こんな曲ばっかり集めたアルバムを、ライブハウスで会う人会う人に配り続けた。何だか皆いい人で、ちゃんと聴いてくれた。次に会うと「聴いたよ〜www」と草生えた感じで感想を伝えてくれた。人の温かみを知った。

そんなことを続けていたら、どこをどう間違ったのか、老舗のインディーレーベルのコンピレーションアルバムに曲が収録されることになった。日本企画だが欧米でも人気のコンピである。嘘だろ、そんなミラクルあるのかよ。

しかもまだ売ってたよ。恐ろしいことにこのコンピ、オレの収録回を最後にシリーズが終了したらしい。南無三。

オレはこのソロ活動後、またバンドで活動することになるのだが、そのバンドに加入できたのも、正直このソロ活動のおかげだと思っている。それまで何の知名度も無かったからね。まったく北朝鮮さまさまである。

実際、バンドで福岡にツアーで行ったときに、「キャプテン・ヨッコイさんですよね!? ソロ大好きです!!」と現地の若者に声をかけられた。首都圏近郊ならともかく、どうして海を渡った修羅の国でそんな珍妙な名前で呼ばれるのかと有り難いやら恥ずかしいやら。いや、嬉しかったよ。

今更ながらコンセプト

当時、ライブハウスシーンではガレージと呼ばれるジャンルが隆盛を極めていた。MAD3、ギターウルフ、それまでオレのやっていたバンドもそうしたシーンの末席の末席の末席の対岸の近辺で活動していた。で、わかったことは「オレのルックスとかキャラクターは『正統派に格好つけてもダメだ』」という大層辛い現実だった。

これを自分で認めるのは正直キツかったが、でも仕方ない。カッコつかないんだから!!

じゃあ、どうする。オレは正統派にカッコつける以外にもう一つ、やってみたい方向性があった。喩えて言うなら「すかんち」のローリー寺西氏のラインが一番近いんだが、ローリーではカッコ良すぎた。

ローリーが自信を持って打ち出した曲に『恋の〜〜』と名付けるセンス。THE WHOの『substitute 』が邦題『恋のピンチヒッター』になるセンス。初期チェッカーズやタッチの楽曲を手掛けていた芹澤廣明のセンス。筒美京平のアイドル曲のセンス。男闘呼組の映画『ロックよ静かに流れよ』で「バッカ、マーシャルだぜ!?」というセリフのセンス。ラバーソウルではなく、二人で揃えたのは「ラバーシューズ」というKATZEの歌詞センス。

こういったセンスをごった煮にして、「ダサい」と「格好いい」のラインを全速力で「ダサい」の方向に滑り込む。しかも本人は格好いいと思ってやっている、という方向性である。

そして、「いや、ホントは君らこういうの聴いてきたでしょ?」という80’sアイドルや80’sバンドの楽曲もカバーしまくった。C-C-Bを筆頭にイモ欽トリオや沢田研二、橋幸夫、アンジー、松任谷由実、小泉今日子、the 5 teardrops、TOM-CAT、映画タッチの主題歌、夢工場、ZIGGY、郷ひろみ、Babe、BUCK-TICK、Coco、斉藤由貴、松田聖子……多分これで全部挙げたと思う。

↑こんな感じですな。

え、ライブすんの!?

咳をしてもひとり、と詠んだ俳人がいたが、オレも一人だ。

音源は作れる。音重ねればいいだけだし。が、ライブは無理だろう。サポートメンバーでバンド編成、という手もあるが、それではただのバンド演奏になってしまう。普通だ。そうじゃなく、たった一人でこれをやっているところにオレの価値があることは理解していた。

しかーし、知名度が上がるにつれ、ライブを求める声が増えてきた。君らは一体何を求めてるんだね? と尋ねたい気持ちだったが、ホントはわかっていた。

オレはステージの上にキ◯ガイを見たい。一体誰がわざわざ金払って普通のヤツの姿を見に行くのか。日常生活が危うい様な、社会生活をまともに送れない様な、辺り見渡しても絶対いない様なフリークスを見たい。

たぶん、周りからオレにライブを期待する声もそうだったんだろうと思う。一人で変な音源作っている変態がいるなら、それを見世物小屋で見たいのだ。ま、確かに見たいよね。納得はしてた。

ただなぁ……今でこそステージ上にMacを持ち込み、バックの演奏はそこから、って人も全然普通になっちゃったけど、20年前にはほとんど見なかった。しかもオレが親交のあるシーンはガレージやらパンクやらロカビリーやらサイコビリーやら、当時刊行されていた雑誌『DoLL』のジャンルだったため、バックを打ち込みでギター弾いて歌うなんてヤツはついぞ見たことがなかったのだ。

結局のところ、だからこそ、という考えに至った。そういうヤツが珍しいからこそ、ライブするべきなんじゃないかな、と。周囲見渡して、誰も足を踏み入れていない未踏の地があるなら、それはもうオレの独壇場じゃないかと。それこそがパンクじゃね? と。

オレはパンクが大好きだけれど、好きであるが故に自分のことをパンクスだと思ったことはなかった。基本、優等生だしね。そんなオレが自身の行為にパンク性を感じた唯一の時である。バンドである、という行為への反逆か。

やったよ。当時吉祥寺を根城に活動していたTHE GOLDEN YEARSというバンド主催のイベントでヘッドライナーとしてやりましたよ。ギターを弾いてマイク前に釘付けになるのが嫌だったので、ジャネット・ジャクソンへのオマージュを込めてヘッドセットマイクで歌いました。

その時の写真はないのだが、代わりに別のライブの写真を掲載します。

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これ、何してるかと言うと、MCタイムで『特攻の拓』の面白さについて語っています。何でもアリだな、オレ。

それから18年くらい経過した

今になって当時の自分を見返すと、静かに狂ってるなと思う。だから面白い。客で観たい。

とてもじゃないが、そんなエネルギーは今のオレにはない。

18年経って音楽的な技量は確かに向上しているけど、勢い余って身体からタマシイがはみ出てる様なあの頃の情熱は、ちょっと返ってきそうにない。

ちょっと悔しいんで何とかしたい。

昔の自分に嫉妬するとか、マジでどうかしているぞ、オレ。

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