喘息日記 Vol.1 小学生時代

小学生時代は、1年の内、100日以上は喘息の症状が出ていたとの記憶。夏は比較的に体調が良好で9月からはダメだった。

朝の登校時に、2階の教室にたどり着いて息絶え絶えだったことを良く覚えている。

それでも能天気に生きていたかも。

マラソン大会はいつもビリから2,3番目。ビリだった人は多分喘息だったと思う。6年生の時に、マラソンが競争でなくなり、体力に合った目標タイムを決めて周回するルールになった時に、事前に発作時に飲んでいた「頓服薬」を飲んで臨んだところ、息が苦しくなく、非常にうれしくてハイペースで走れた。目標タイムより2分程早く走ってしまい、ビリになった記憶がある。この時の感覚は今も忘れてはいない。健康な人間が運動した時の気分の高揚を始めて実感した時であったと思う。

小学生時代は対処療法の薬しか飲んでいなかった。予防の粉を吸う薬は、当時の認識として「効かないから意味がない」と思い込んでいた。思い込みはいつの時代も恐ろしい。良い両親でしたが、今、思うと、親がしっかり管理しないといけなかった。両親は共に、喘息患者の目の前で煙草を吸っていて、人生、生まれた時から健康で生きてきたので、息子の健康状態が悪いのを、悪気はなく、子ども自身の責任として捉えていたのだと分析。

小学生6年生頃になると、喘息を治したい一心で、情報収集していた。当時はインターネットが無かったので本で探した。ごま油が健康に良いとの情報を見つけたり、喘息の究極の治療方法として「牛の脳下垂体をお尻に注射(移植)する方法」がヒットして、2回の注射で21万円した記憶がある。親に頼み込んで、ひとりで東京のどこかの病院で、牛の脳下垂体を2回注射してもらったが、結果として治らなかった。。残念だった。。

牛の脳下垂体注射の数年後に狂牛病が世間を騒がせた時に、少しビビった記憶がある。。つづく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?