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非暴力社会は実現可能か

米アカデミー賞授賞式でウィル・スミスがクリス・ロックを殴りつけた。場所や事情を考慮してもしなくても、これは当たり前だが許されてはならない。なぜなら、いかなる場合でも物理的暴力が認められてしまえば、いわば腕っぷしの強さで何でも支配できてしまうからだ。今回のウィルの気持ちを推し量れば、単に黙れという気持ちの表出だけだろうが、暴力を振るう側の条件によっては相手を肉体的にも精神的にも蹂躙し人権を踏みにじる行為になりうる。だから暴力はいけないということを、建前だとしても飲んで守らなければならない。

一方で、クリスの“いじり”は暴力に当たらないのか、という意見も当然ながら見ることができる。私はこれも、グレーゾーンながら暴力であると考えている。あからさまな誹謗中傷とは差異があるだろうけれども、受け取り手の事情によっては傷つける可能性がある言動だったからだ。誹謗中傷は、自分の欲求や要求を相手に分からせるためという点で物理的暴力と根は同じだが、クリスはそこまで意図していなかっただろうと思われる。

この件に関しては、どちらかがよくて他方がダメということをいっても仕方ない。手を出すことは約束としてダメ、それを引き起こすことになり得た言動は控えた方がいいということだけだ。例えば、意図的に相手が先に暴力を振るうよう仕向ける行為を考えてみると、これはこれでなかなか卑劣な行為だ。その意図は証明しようもないだろうけど。

話は変わって、暴力を物理的な力の行使だけに留めず、言葉や態度で気持ちを表明するこで相手に影響を与えるものと考えるなら、単なる拡大解釈かもしれないが、赤ちゃんが泣くということすら、それは暴力性をはらんでいることにならないだろうか。それは子供だけではない。相手を理解しているような態度で懐柔しようとすることも、嫌なやつを無視するということも、お節介なおじさんおばさんも。なんだかマイナスなことばかりのようだが、言動によってはプラスに働く可能性もある。ある人のどうしようもなく発せられた言動によって感化され、背中を押されるような気持ちになった経験はないだろうか。

そのように、善悪関係なく単に影響力を与え合うというところまで落とし込んで考えるならば、人が(二人以上の)人間関係を築くために暴力は避けては通れない。仏教でいう縁起というかエネルギーのやり取りというか。

そういう意味で言うと、暴力的なエネルギーは本能として人間に備わったものではないだろうか。問題はその表現が、どこまでよくてどこからダメかの線引きだ。

最近、侮辱罪の厳罰化がニュースになっている。人を侮辱した場合の罰則が、「拘留または科料」から「1年以下の懲役もしくは禁錮、30万円以下の罰金、または拘留もしくは科料」となるようだ。近年の行きすぎたSNSなどにおける誹謗中傷を抑止しようとする点では、大いに歓迎されるものだろう。ただこの線引きや適用される対象如何では、それこそ相手が侮辱されたといえば何でもダメとなってしまい、言いたいことを言えなくなってしまう懸念がある。表現の自由と、それを抑止する法令との境界のせめぎあいがこれからも続くのだろう。

以上から完全な非暴力社会は、既に暴力的エネルギーを備え、それを表現せざるを得ないヒトにとって実現することがかなり難しいだろうし、それでもなお諦めず理性を働かせて実現を目指し続けるしかなさそうだ。

まあ個人的には、あまりにも全方位に配慮しすぎるために閉口しがちになっているので、少しは気持ちを表しつつ、できる限り善い影響を与え合えるよう努めたいと思っている。


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