命は「絶やす」ものじゃなく「尽きる」ものだ
それは、おじいちゃんが死んでからもなお、私に教えてくれたこと。
何もかも考えるのが億劫で、何をしてもそこにあるのはいつも徒労感で、いつの間にか感情の中から喜び楽しむ、あかるい色がなくなってしまっていた日々。
死んだら全部終わって、もう考えなくっても、いいんだなあ
突然そんな風に、「自分で命をやめる」という選択肢がふと湧いた夜。
いやいやそんな。なんちゃってね。
翌朝はやくに、おじいちゃんが死んだと、聞いたんだった。
どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。
お腹の底から、何かが湧きあがってきて、体中の血液が下からぐわっと逆流しているような。
頭の底から、電流がバチバチ火花を散らして爆ぜてるような。
何も見えなくなって、身体は私のコントロールを離れてただの物体のよう。
おじいちゃんはずっと私のおじいちゃんとして生きていてくれるんだと思っていた。
「人はいつか死ぬ」そんなことは知っていたけど、その常識とおじいちゃんの命は結び付いていなかった。
おじいちゃんの周りにはたくさんの家族やたくさんの友達やたくさんの人々がいる。
おじいちゃんを信頼している人は数えきれないほどいる。
私はおじいちゃんの日常をほとんど何も知らなかったけど、おじいちゃんのことを信頼している人が、大好きな人が、数えきれないほどいることを私は知っている。
みんなの宝物。もしかしたら人類にとっての宝物なんじゃないだろうか、私のおじいちゃんは。 そんな風にも思っていた。
「おめの好きなことをやれ」「おめにできることをやれ」「おめはめんこい孫だから」
私がまだ小さいときから、大人と会話するのと同じ言葉で話してくれた。
ひとりの人間として尊重してくれていた。もしかしたら、私はおじいちゃんに生かされてきたのかもしれない。
年に一度しか会えないおじいちゃんに。
私がどんな子供だったか、どんな苦しさをもっていたか、どんなさみしさを抱えていたか、何にうれしいと思うのか、おじいちゃんは知らなかったはずなんだ。
おじいちゃんは、「私がどう思うか」じゃなくて、「俺がどうするか」を考えていたんじゃないだろうか。
だからきっとシンプルだったんだ。
大切なことはひとつかふたつ。
そうか、「自分がどうありたいのか」「自分に何ができるか」、このふたつかもしれない。
おじいちゃんは、命が尽きるその時まで、遠くにいる私の命を救ってくれたんだ。
心配させちゃったな。私が「死んじゃおうか」なんて一瞬でも考えたから、心配で心配で心配で心配で、その日の朝、夢に出てきて、一緒に富士山登ってくれたんだよね。
おじいちゃんが死んじゃった時、私が変なこと考えたから、おじいちゃんの命を終わらせてしまったんだと思った。おじいちゃんに生かしてもらった自分の命を、この先どうやって生きていけばいいんだろうと思った。
でも、おじいちゃんは私のために死んじゃったわけじゃないんだね。
おじいちゃんは「自分がどうありたいか」考えつくして「自分に何ができるか」をやり尽くした、おじいちゃんの人生を生き抜いたんだね。
私のせいで、なんておこがましかった。
それはそれはたくさんのお花と、何人もの和尚さんが唱えるお経と、たくさんの人たちに見送られる立派な告別式の間中、心の中にも頭の中にも伝わってきた、おじいちゃんの教えたかったこと。
「自分がどうありたいのか」「自分に何ができるか」、命は絶やすものじゃなくて、そうやって命の使いかたを自分で決めて、いつか死ぬその日まで、命を尽くして生きていくんだね。
私はこれから、きっとそうやって、おじいちゃんのように生きていくから、おじいちゃんは安心して、やっと会えたおばあちゃんと、積もる話をたくさんしてよね。
本当はおじいちゃんの1周忌までに、報告したかったんだけど、少し遅れちゃったよ。
おじいちゃん、ありがとう。
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