ネット記事でハッとした。
自慢ではない啓発なんだ
今回はトゥゲッターで資格取得に関わる記事の見出しを見てこれは言わないといけないと思った次第です。ネットにはどうしても衝動的な記録をしてしまいがちですが、大切な事なので投稿します。
私は、今現在国家資格的な資格をいくつか所持している。時間が経ってしまい能力としては現場レベルにはないかもしれないところがあるがそれでも意味があるから説明してみる。
資格取得には実技と学科の側面が大体ついてくる。つまりは、暗記の側面と実践に至る練習の必要な側面という意味合いで十分だと思う。できればいい、分かればいいではなく両方ともにできて使用と従事の基準を満たした記録が免許などの形として約束の形を整えてもらう事だと理解している。
実際の現場ではいいも悪いもその仕事につく人物に信用などが任される事ではあるが、資格の必要な能力を獲得する為に必要な実践と座学を習得した事実というのは何よりも本人に蓄積される確かな経験として役立つ。同じ現場で働く仲間意識や同じ業務に就く連帯感など表現はさまざまできるだろう。そんな一つの基準を満たす事ができた実績というのは、金銭と時間で交換できる一種の物差しと考えられる。基準をクリアする機会をその資格でクリアしたことにもなると社会で通用する基準になるからと理解と共感を得られる。ただ、それだけのことでいい。資格を得た人と得てない人の差が確認できれば十分だ。
私自身、本を読んだり、専門家に会いにいく事について一時は集中して費用と時間を割いていた。実績としては自己満足の範囲ではあるが、学歴のないコンプレックスや社会的な姿勢や立場についてそれなりの実際の知見を確認する事ができた。具体的には説明を控えるが、面白い事に学生の頃にも似たような経験をしていた。当時は価値のある体験であった認められる価値観を維持や保持をしている事に誇らしさを感じていた。だが、これは内面の感覚であった。年を経て理解が進んだ事は人は外面でほとんど理解をすましてしまう事であった。この事は昔から知っていたし、今も変わらない。
不愉快なほどにその価値観は変わらない。この記述はほくそ笑みながら書いてしまっているが、外面が整っていればほとんど内面は掘り下げられない。つまり、見栄と本質の差は大体理解されないし、説明もしたいと思わない事がほとんど。だから、ただ自分自身の能力を磨く事に資源と時間を費やすだけではなく、自他ともに効果的な方法や実践が必要な事だと考える事が大事な事だと言える。
そんな感覚を説明できたら嬉しいかなと思い書き綴っていく事にする。
淡々と頑張ったその証
ネットではあんまり見られない事にはなると思うのだが自慢は少ない。単純にここまできたどうだ!と言っているだけではないだろうか?それを自慢というのはいささか理解が浅いかもしれない。自分が目標を決めてそれなりに続けてきた成果や結果に関して記録を残すのは自然な事。些細な失敗で人生が終わる事も視野に入っている事であれば尚の事、記録ぐらいはあったほうが楽しく前向きにしていられる。どういう訳か人というのはいつまでも同じ仲間とつるむ事は少ないようだ。長い目で見る事ができるようになるほどに一緒にいるという事は業務的になってしまうようだ。
私自身の話で恐縮だが、冷凍倉庫で働いていた時はフォークリフトの免許取得に遅れて現場での連帯感を損なってしまった経緯がある。真面目に働いていたつもりだったのに、だ。その代わりと言ってはなんだが、体脂肪率を20%代から5%以下の計測限界まで追求させてもらう時間をいただいた。それにつけて2輪の免許を取得した実績もある。中型二輪ATと大型二輪の免許を当時は持っていた。仕事の休みの時間にスケジュールを確保して免許取得に勤しむ事が現代の教習所では容易だったのが大きな要因だと思う。費用捻出については、ダイエットに伴う時間管理と家計簿による計画的なコスト計算が定着していた事がこの判断を促す事に役立っている。基本的に節約とは費用と時間の置き換えになる訳で、これまで捻出していたコストのかかる行動を選別して同じ程度の時間と費用を一定の目的に定めた習慣や行動計画に置き換える事で成功する。
言うは易し、行い難し。
この言葉は、理解が伴う実践的な思考と行動のバランスに関わる古い言葉の一つであると言える。言い回しとは実際の行動と並べて考える事で想定と実践の間にある練習が必要だと思い出す事で意味が生きてくる。基準を満たすために意識して練習する事が必要だとしたら、その道具や技術を使いこなすための環境が必要なわけで、その環境をある程度一定の範囲内にとどめ続ける約束事が保証される必要があると理解している。道具を使うものも環境を利用して収益を獲得するものも一定の範囲内で事業や業務に役立つ資格保持者を活用する事ができるのなら便利さと安全が維持できると考えるものだと思う。さっさとフォークリフトの免許を取得していれば今このような記事を書く事はなかった。無駄だと思う時間にこそ自分が自分らしく生きる意味が見出されていくのだ。ちなみに大型バイクはまだ購入できてはいない。この事は特筆すべき目標設定の貢献する一つの諦めだと書き残す事にする。
節約とは、想定される費用と期間を比較検討可能なレベルで正確に想定する事で決断を可能にする準備に過ぎない。これからの時間を無駄にする事と活用する事に正確さと丁寧さに分けて明確に価値判断を行う事で実装される一種の哲学的な生活スタイルの一つになるということを理解していただきたい。決断に至る時間は決して無駄ではない。今までの方法では解決できなかった問題を解消するための一瞬の為に備得続ける仕組みの定型化に秘密がある。
ダイエットには限界がある。収入の増加には段階的な業務効率のパラダイムシフトが必要になる。知っているだけでは解決しない、一瞬の閃きが必要なのだ。
わかっていることから知っていることへの価値基準の変更が必要になってしまう事が腑に落ちるまで練習する事は大事な事だったのかもしれない。自分が思っている以上に功を奏する事というのは、練習を繰り返した結果、簡単にできるようになっていく事に意味があると信じることに意味があるのかもしれない。事業にできていない事が”事”という文字を多用する無駄になっているのはご了承いただきたい。口癖と同じ感覚なのだ。
これからもコツコツ頑張りたいから建設的に考えた
現代では、統計的な数値をグラフで一瞬で確認できるようになっている。職人の世界では、季節や相場感覚で言うところの価値基準は製品に至るまでの環境や素材、その技術に置かれていた。比較対象としての工場製品にそれなりの世代を経る事で製品の精度が高まる経過が現れる事と同じと言える。
同じように広告宣伝での最高レベルの表現の一種としてブランドという基準がある。工場製品ではメーカー製と言われていたものが一種の価値基準になっている事と同じ意味合いと考える事ができる。実績や収入とは別に自分自身の商品価値としての一種の基準として資格は役立つ。ここで注意をしたいのは、資格を取得したらそれで終わりという事ではない。自身の商品価値を決める働く環境で必要とされる能力、成果基準を満たすレベルを維持しなくてはいけない。労働時間や働き続ける期間や計画に応じた練習の必要とする時間管理や資金調達が必要になる事もあるだろう。
一瞬間の決断に至る原因や理由はこれまでの連続性が現れる。自分自身の内面に由来するもの、または外面に影響するもの、さまざまな複雑さを伴う実践が必要とされるだろう。これまでの習慣を諦める必要も機会もあるかもしれない。全ては連続する一瞬と継続する意思によってバランスされる結果が現れる。無理や無駄は、複雑さを維持した結果かもしれない。機会や中毒は一種のアンバランスに影響していく事が考えられる。自分自身の一貫性に従う適正な環境を維持する為に必要な事はそれほど複雑には感じないのが普通の事。自分自身を望む環境に適応させる為に必要なギャップが必要であったとしたら、やはり目的の改善になると考える。私自身、今までの価値判断は過去の一瞬の感覚に従った結果であったと振り返る。物事の見方が多様になればなるほどに時間の連続性を確認できる記録が重要になると思う。専門家に学んだ動機はこんなところになる。無駄だと理解しているからこそ、生きてくる周囲の連続性のある記録に意味が見出せる。暗記は自身の脳にインプットする事である。アウトプットは一種の共感の範囲に収まる記録の成果物である。その間にあるスペースは”&”そうやって学びました。ただそれだけの事。同じ意味の違う言葉に人は共感や連動を伴わせて感情を整えてきたと思う。
ダイエットの行き着く先は一種の信仰のようになる。仕事は体を動かしてなんぼの世界、つまり相反する価値基準に現れる矛盾と折り合いをつけなくてはいけない。私自身の経験から言わせてもらうと、コストと期間を設定して無駄を覚悟で実践に意識を注いできた。結果としては先述の免許のように無駄の範囲に収まっている。目的は過去の時代の価値基準に沿って説明をすると、アメリカ大陸の発見に至るまで農業革命と価値基準の維持に歴史は費やしていたように見える。日本では黒船襲来となってはいるが、実際は水面下での情報交換はなされていたのが史実の一部。振り返ってみれば整合性が整う範囲で理解されるだけのことではある。実際は統計の範囲に収まる暗記の意識的な実践に他ならない。意味が伝わりにくいのでスポーツで例えてみよう。朝練でランニングにするか筋トレにするかを迷うのは些細な事、必要な練習は実践に則した内容であれば十分で、正確さと丁寧さが求められるのは練度と効果を確認できる基準の範囲内に収まり続けているから継続できる状態になっているに過ぎない。今はアプリで記録が残せるから環境選別は難しくはないのではないだろうか、と思う。
結局定年までだから
人生全体でどんな生活にしたいかを決めるのに有利な考え方というのはある。それに伴い必要な行動も当然ある。現代ではお金についての変化がこれまでにない範囲で熾烈であった。その影響から、長期スパンでの計画はイノベーションに伴い影響が大きく判断は難しいものであった。人の寿命が毎年更新されるニュースのように、基準が刻々と変化する世界では、正確さと正しさのバランスが整わないのは普通の事であったと思う。一瞬間の決断に伴う行動量というのは人生スパンでは基準の変化に伴い、整わない範疇であったと考えられる。時間と行動量のバランスは長期視点になればなるほどに複雑さを伴っていく。しかし、習慣ベースで考えると案外簡単に判断できる不合理さも確認できる。つまるところ、意識して練習する事で非現実的な目的も一定の臨場感を維持できると信じる事はできる。
現状で記録に残す困難さは、資格活用に関わる目標設定に影響する事である。正確な計画を立てる事に役立つ情報収集の量が足りていないという事であろう。習慣に従う環境構築と費用設計に課題が生まれるという事である。
ここで、習慣について記述する必要がある。自分自身の生活を守る為に必要な習慣というのは、仕事で必要な成果を産む為の行動を維持する為に活用される。ここでは基準は不明確なレベルだとは思う。しかし、仕事の成果は正確に計測されるものになる。改善を施すにあたりある程度の実験と検証により正確さと基準が計測されると期待される。環境に影響される現状分析は一種の連続性を計測される内容ではある。
いい加減にきちんとした本音を言わなくてはいけないのかもしれない。費用対効果というのは計測可能な範囲でのパフォーマンスになる。つまり、個人的な価値観は排除されている。仕事においては自分自身の価値観というのもそれなりに影響する。なぜなら、個人対個人の側面はどの立場でも混ざるものではあるからだ。だからこそうまくいかない側面が目立ち、避けたいと思う感情とどうしても自分で成し遂げたいと思う感情とがぶつかるものだと思う。我慢強く考えた先には、お互いの理解を維持する相互得を獲得するには難しくないタイミングというのは都度都度起きる。そんな時にはきちんと相手を認める行動を選択する事が大事だと考えてきた。win-winという考え方は持続可能性を保つのに大概役立つからである。
上手くいく時というのは自分が一貫して続けてきたものに関して意味を感じたときではないだろうか。私自身、転職を繰り返してきた立場からすると、単純な基本的な事を淡々と正格に続ける事でしか成果は獲得できなかった。時々やってくる環境の変化に適応するべくこれまでの習慣を犠牲にする時間も挟みながらも、これまでの成果を思い出す度に改善してきた。そして、今までの習慣を再現している。一言に習慣といってもさまざまな時間を意味している。読書であり、映画鑑賞であり、運動であり、一人思索にふける時間がその習慣にあたる。毎日の行動は微妙に違いはある。日々過ごす内に思考に流されない体を動かす方が先にくるタイミングに従い、自分を繰り返し改善してきた。自分に自信を持つという事に焦点を当ててコツコツと自分を保ってきただけだとは思う。歴史を振り返るに、大勢に向かって宣言をするという行為は必要なのだと伺える。いや、それしかないとも言える。人は大差がない、とはいうものの大きな差に感じる差というのは確かにある。負けてはいけない、勝てなくても。そんなふうに自分は励まし続けてきた。ただそれだけの事だったのだと思う。これからも自分のことを諦めずにいたい。
人生100年時代にこの20年で変化してしまった。年金を作らなくてはいけないのだ。
ここまで読んでいただきありがとうございました。