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第4部補稿:『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』試論

公開当初は秘密というかある種のネタバレになるので見た人だけのお楽しみであったが、今ではDVDや配信での宣伝でも書かれているので言っていいであろう。2022年に公開された映画『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』では、それまでに公開された3つのシリーズ(=3つの平行世界=マルチバース)のスパイダーマン=ピーター・パーカーが、一堂に会する映画である。「マルチバース」自体は2018年のアニメ版スパイダーマン『スパイダーマン:スパイダーバース』で描かれていたが(いずれアニメ版と実写版の並行世界の融合もあるかも)、今回は過去の実写映画シリーズがそれぞれの「世界」と見做されており、そこでの主演俳優たちがそのままスパイダーマンとして原稿の映画シリーズ世界で一堂に会するという点で、映画としても面白い(新しい)し、過去シリーズに対し思い入れのある人にとっても「エモい」作品となっている。

そして、この映画、本稿で提示した「複人」という概念から見てみても興味深いものである。それぞれの世界のピーター・パーカーはそれぞれに違う「存在」である。しかし、それぞれのピーター・パーカーがそれぞれの世界において「スパイダーマン」であるという点では共通している。しかし、では、その「スパイダーマン」はそれぞれの世界において同じ存在かというとそうでもあるしそうでもない。基本設定は同じとしても、例えば体の中からクモの糸を出せるか出せないかという点などで微妙に異なっている。言ってみれば「現実存在=実存」としては違うがそれぞれの世界における「役割」や「位置づけ」は同じ、つまり「本質存在」としては同じ(「スパイダーマンはクモの特性を持つスーパーヒーローである」と定義づけられるような存在)というような言い方ができよう。

つまり、「本質存在」としての「スパイダーマン」とは、ある意味やはり一種の記号でありキャラでありアバターであるということになろう。第2部の「アニメ・まんが的リアリズム」についての検討の際に見たように、キャラは記号にすぎないが、同時にある種の強度を持っている。大塚(1989など)によればキャラが命を持つのは「ストーリー」においてであった。一方、伊藤(2005)を踏まえた上での東(2007)によれば、キャラが命を持つのはまさにその「強度」においてであった。「スパイダーマン」というスーパーヒーローものにおいて「スパイダーマン」というキャラが命を持つのは大塚によればまさにその「スーパーヒーロー」ものとしてのストーリーのおかげである。しかし、そこでは、なにもそこでのキャラは「スパイダーマン」でなくてもいい、他のヒーローとも置き換え可能である。一方、伊藤を踏まえた上での東によれば、「スパイダーマン」はあくまで「スパイダーマン」でなければいけない、あの恰好とあの設定でなければいけない。「スパイダーマン」ファンが「スパイダーマン」が好きなのは、それがまさに「スパイダーマン」だから(=「スーパーマン」や「バットマン」ではないから)である。

では、ピーター・パーカーはどうだろうか。ここではあくまで実写版の映画シリーズで、つまりはピーター・パーカーという存在をキャラクターとしてではなく、実在する人物(=現実存在=実存)と捉えて考えてみたい。俳優と役、演じる人と、演じられるものを一緒にしてしまってはいけないが、それが一緒になるところに「アニメ・まんが的リアリズム」ではない「実写映画的リアリズム」があると言えよう。いわゆる「当たり役」というものがそうであるが、我々は映画においては役者を見ているのではなく、役を見ている、つまりは「中の人」ではなく「アバター」自体を見ている。そして、当然役者は基本的にはその「顔」をさらしているので、見ている我々にとってはその役者の顔自体が一種のアバターとなる、「寅さん」は渥美清でなければならないし、「座頭市」は勝新でなければいけないというような例である。そしてそう考えると、主演俳優の突然の死や制作者側の事情などで主演俳優が変わる場合は、原則としてはその映画自体を「リブート」しなければならない(ちなみにその約束を破っているものの例として007シリーズが挙げられるが、これはジェームス・ボンドというもの自体がある種のスーパーヒーロー、つまりはそれ自体がスパイダーマンのようなものだから成り立つのであろう。ジェームス・ボンドというアバターにおいて重要なのはその顔ではなく「色男」というその設定である)。そして「リブート」とは文字通り世界を、設定を立て直す、というものである。よってその「リブート」で作られたシリーズのことなる「スパイダーマン」では、必然的に、それぞれのシリーズでのピーター・パーカーは違う「存在」、それぞれがそれぞれの「実存」を持った違う存在となる。

さて、ここで、話を「複人」に戻すと、第4章で述べてきた「複人」とは複数のアバターを持つことで一人の人間であっても複数の存在になり得る、ということ、そしてそうすることで「唯一の存在としての私」という壁を乗り越える可能性が見えてくる、ということであった。これは、考えてみれば、役者が髪型やメークを変えることで違う役になれるということと似ている。シルベスター・スタローンはロッキーのメークをすればロッキーだし、ランボーのメークをすればランボーであるし、そのような存在として(あくまで映画の世界の中に限定はされるが)生きていけるというような例である。しかし『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』において興味深いのは、そのような形での「複人」ではなく、それぞれ別世界での別人(実存として別)としてのピーター・パーカーが、それぞれの世界での別人(実存としては別人)ではあるが「本質存在」としての「スパイダーマン」としては同じ「スパイダーマン」として登場してくるという点、その意味である意味二重の複人化が行われているという点である。「1が多」としての「複人」に留まるのではなく、「多が多」としての「複人」のあり方、あるいは「多が1」という形での複人の在り方を提示しているという点である。

先に「複人」となることで「「唯一の存在としての私」という壁を乗り越える可能性が見えてくる」と述べた。しかし、その場合、そこでの「壁」はあくまで「唯一の存在」のほうに、「私」が「私」である一要素としての「唯一の存在」としての「実存=現実存在」のほうに向けられていた。しかし「多が多」「多が1」としての「複人」においては、今度は、「私」の一要素に対してではなく、総体としての「私」、イメージとしての私、概念としての私、つまりは「本質存在」としての私というものに対してまで「壁」が向けられることになる。「1が多」としての「複人」であればその前者に位置する「1」の存在(=前提としての現実存在(実存))は、やはり維持されえるであろう。その意味で「乗り越え」はあくまで「可能性」の域を超えない。しかし、「多が多」「多が1」としての「複人」においては、その前者に「1」がないという意味で、まさに前提自体、現実存在=実存としての私という前提自体が打ち壊されるのである。しかし、これは同時に次のような疑問を生む。「では、今度は本質存在のほうが優勢になってしまうのではないか」という疑問である。ピーター・パーカーがピーター・パーカである得るのは「ピーター・パーカーはスパイダーマンである」という「本質」として定義されるからではないか、という疑問である。

ある意味ネタバレになってしまうが、映画『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』においては「私に関する私以外の人の記憶を消す」ことで、この世界、そして他の世界をも含むマルチバース全体が救われることになる。そこでは「スパイダーマン」というもの自体、「ピーター・パーカー」というもの自体が消えるわけではない。しかし、それはそれ自体、モノ自体としては存在する存在であるが、しかし誰かに認識される、意味づけられる存在ではない、単なる記号としての、単なるキャラとしての、単なるアバターとしての「命」を持たない(持てない)存在である。言い換えれば、「ピーター・パーカーはスパイダーマンである」という「本質」が、共有されない存在である。つまり、ここで「ピーター・パーカー」は一度それまでの自分に与えられた役割としての「本質」を捨てて、ゼロに戻ったのである。恋人や親友に認識されないという点で、この映画のラストは悲しいものではあるが、しかし、そこに新しい希望や可能性も同時に垣間見られるのはそのせいではないだろうか。もし、続編が作られるとしたら、それはそのような世界において「スパイダーマン」が、そして「ピーター・パーカー」がどのように自らの命を、言い換えれば自らの実存を再構築していくか、という話となるであろう。「ピーター・パーカー」はある意味「スパイダーマン」という束縛から逃れることで来たのである。しかし、同時にそれでも「スパイダーマン」であることには変わりはない。では、そのような生をどう生きるか、どう生き直すか。それが今後のテーマとなってくるであろう。そしてそこでのヒントとなってくるのが「複人」という考え方であり、また「マルチバース」(=複数世界)という設定である。今シリーズは今回で終了し、また新しくリブートされるのかもしれないが、それも含め、アニメ版も含む次回作が楽しみである。


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