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第4部 XR論=空間論:「実存」から「実在」へ(9)

9.ファンタスティックな空間としてのVR(2):「フォトグラメトリー」による「モノ」性の強調

そして次に出会った、と言うか衝撃を受けたのはこれも先に述べたように『Emma VR: Painting Life』でも使われていたフォトグラメトリーの技術である。『Emma VR: Painting Life』においてはこの後、アトリエを抜け出て、作家の寝室に入ることで、先に述べた体のサイズの問題は一応解決される、というか元の身体サイズに戻るのだが(しかし、「あれは何だったんだろう」という意味で、決してアトリエでの経験は意味づけられる(処理される)ことはない)、今度はこのフォトグラメトリーで作られた寝室も、よく見てみれば(というかよく見なくても)異様な空間である。

そして、このフォトグラメトリ―がまた特殊の効果、人を戸惑わせる特殊な効果を生むことになることは『"Zeniarai Benten" Shrine』のところでも、サルトルの小説『嘔吐』を引きながら述べたとおりである。『嘔吐』において、主人公のロカンタンに吐き気を及ぼしたのはマロニエの木の根の恐るべき生々しさであった。その瘤があり、異様にうねりまくった形が「それは木の根である」という認識を凌駕し、まさに「モノ自体」としてロカンタンに迫ってきたが故のロカンタンの混乱であり、戸惑いであり、吐き気であり、不安であった。そしてそれは、フォトグラメトリーの手法を用いて作られたその世界においても言える。認識可能な「モノ」ではあるが、しかし同時に認識を超えてくるもの、認識を否定してくるもの、認識をずらしてくるものとして、これらの「モノ」達は迫ってくる。それは戸惑いというよりも、もはや不気味であり、ある意味不快、グロテスクでさえある。しかし、まさに『嘔吐』におけるマロニエの木の根がそうであったように、グロテスクであることこそが「モノ自体」のある意味本質(認識にとっての本質ではなく、モノ自体としての本質)なのである。認識される以前のモノ、意味づけられる以前のモノとは必然的にグロテスクなものであり、だからこそ人に不安と不快感を与えるのである。

しかし、また、次のように考えることもできよう。我々人間にとって、モノがモノ(この場合は認識されるものとしてのモノ)として捉えられているのは、我々の視覚の解像度がそのようなものになっているからであると。視覚の解像度の低い動物にとっては、モノというものはそもそもこのフォトグラメトリーのように見えているのかもしれない。そちらのほうが動物にとっては「リアル」なのかもしれない。また、我々より視覚の解像度が高い生命体にとっては、我々の見ている世界こそがこのフォトグラメトリーのように見えているのかもしれない、と。

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主に2022年から2023年3月頃までに書いたSF、アニメ、アバター(Vチューバー)、VR、メタバースについての論考をまとめました。古くな…

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