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第4部 XR論=空間論:「実存」から「実在」へ(1)

1.「実存」から「実在」へ(1):「実存」の出発点としての現象学

 第1部と第2部では、我々人間は「リアル」ではないものにも「リアリティ」を感じることのできる存在であり、その入り口というか契機になるのが「真/偽、真面目/冗談、現実/虚構などの差異を無化した価値体系の零度の地平」(原野、2008)である「パタフィジカルとしてのファンタジック」という地点にあることを見てきた。そして第3部では、キズナアイを例にその「リアルではない存在」がすでに我々のリアルの世界の側へも侵入し浸透していることを確認した。その上で、この第4部では、先に述べた「パタフィジカルとしてのファンタジック」というものも、既に人間の「空想」「想像」の世界だけではなく、XR(VR=Virtual Reality=仮想現実、AR=Augmented Reality=拡張現実、MR=Mixed Reality=複合現実、SR=Substitutional Reality=代替現実、などの総称)として我々のこの世界に侵入し、浸透しているという事実を述べるとともに、その事実がもたらす意味や意義というものについて検討していきたい。

結論を先に述べてしまうと、まず指摘できるのは、世界というものを人間(ここで言う人間とは複人でも別人でもない「個人」)を中心として考えることは良くも悪くも、もう難しい(というか無理な)時代になっている、という事実であり、そしてそこから引き出せるのは、もはや「存在」というものも、「人間存在」だけを考えるのではなく、モノの存在についても人と同じように、あるいは人という存在もモノの存在の中の一部として考えていく必要がある、という事実である。実際、このように人間中心の存在論に対して、そうではなく「モノ」の側から存在について考えていこう、言い換えれば「モノの存在論」というものを考えていこう、それを通して「場」全体を検討していこうという「存在論的転回」という動きが、主に人類学の分野から生じてきたことは、第2部でも触れたとおりである。そしてこの動きは、哲学の分野では「現代実在論」という動きとして現れている。

 ここで改めて整理しておきたいが、既に見てきたように、モノが先か、心が先かという議論が哲学の歴史においては長くあった。モノか心かという問題は言い換えれば絶対的な客体というものが存在するのか、それともすべては人の心の中に現れる観念に過ぎないのか、という問題である。モノはモノとして物理的に存在する。その事実を疑う者はいないであろう(というか疑うからこそ哲学というものが生まれたのであるし、今後筆者もその存在を疑っていくのだが)。しかし、問題はそのモノはどうやって捉えらえるか、どうやって認識されるのか、という点である。例えば1個のリンゴがあったとする。しかし私が見ているリンゴ(=私の捉えている/理解しているリンゴ)と、あなたの見ている(=あなたが捉えている/理解しているリンゴ)は同じなのか、という問題である。リンゴではなく色をイメージしてみるともっと分りやすいかもしれない。私はリンゴを赤いと言い、あなたもリンゴを赤いと言う。しかしその「赤さ」は果たして同じ見え方なのか、という問題である。

ここではこの問題を岩内(2021)に倣い「主客一致の認識問題」と呼ぶことにしよう。「こちら側に認識する<私>が存在していて、あちら側に認識される世界が存在する。ところが、そうであるからこそ、主客一致の認識問題は自然的態度の内側では決して説くことができない」(岩内,2021,p.157)という問題である。こちら側にいる限りはあちら側の世界は認識(=こちら側の私の意識の内)としてしか語り得ないのである。そしてこの主客一致の認識問題を解くために、「自然的態度のなす一般定立を遮断して、世界を意識との相関性において捉える」という態度変更を行ったのがフッサールによる現象学の基本的な考え方である。「自然的態度のなす一般定立を遮断して」というのがいわゆる「エポケー(判断中止)」という考え方であり、現象学の基本的なアプローチである。そして「エポケーを遂行した上で、世界の一切の存在者を意識に還元すること」が「現象学的還元」と言われる方法論である(岩内,2021,p.158)。

 しかし、こう書くと、多くの人は、「では、現象学はモノを無視して心のほうを見ているのではないか」、つまり「モノか心かという問題に対して、心側の立場をとっているのではないか」、というふうに思われるであろう。しかしそうではない。ちょっとややこしいが、「モノかこころかという二元的、二項対立的な考え方はできない、両者は分けることができないとした上で、そしてその上でモノをその対象としたうえで、しかしモノそのものを見ることはできないのだから、モノの見え方についてはいったん保留した上で、モノ自体ではなくモノと意識との関係性について、意識の側から見ていこう」、というのが現象学の基本的な考え方であり方法論なのである。つまり、意識の方を対象としながらも現象学が目指すのはむしろ「モノ」のほうの解明である。「モノ」の「本質」(「モノ自体」ではなく「モノの本質」を見るために「自然的態度のなす一般定立を遮断し」た上で、意識のほうを見ているのである。事実、岩内(2021)からの孫引きになるが、現象学の祖であるフッサールは次のように述べている(岩内,2021,p.163)。

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