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第5部 VRにおける空間と世界:「実存」から「実在」へ (11)

11.ファンタスティックな空間=世界としてのVRとSF(4): 「認識」(意識)から「存在」(モノ)へ、さらには/あるいは「本質存在」としての「存在」(、、、である)から「現実存在」としての「存在=実在」(、、、がある)へ

ジョージ・コリンが図らずも ヴォネガットの一連の作品群を「 SFプロパーよりもむしろファンタジィに密接な関係を持つ」と指摘したように、XSF、パタフィジックの存在位置も、まさにそれが「科学外」「パタ(=超)」と名付けられていることからも明らなように、いわゆる「SF」よりも、ファンタスティックな世界としてのファンタジィのほうに近いことは明らかである。しかし、すでに何度も繰り返しているように、そこでのファンタジィは何でもありの魔法の世界ではない。「科学の条件が消滅する世界は、必ずしも意識の条件も同様に無効化される世界であるとは限らない」とメイヤスーが述べていたように、「意識の条件」はそこでも存在し続けなければならない。魔法の世界は、「無秩序な変化があまりにも頻繁に起こる」世界(というか起こっていい世界)、即ち「カオス」の世界であり、そこは「科学の条件も意識の条件もともに無効」となってしまう(=「なんでもありではどうでもいい」となってしまう)世界である。では、「意識の条件」とは何か。この問いについてメイヤスーは「形而上」という観点からそれに迫っている(迫っているというか問いを立てている)。これまで検討してきたメイヤスーの論文のタイトルが「形而上学とエクストロ=サイエンス・フィクション」であったことを思い起こしてほしい。

同論文におけるメイヤスーの論考の流れは簡単にまとめると次のようになる。メイヤスーはまず、形而上学の源泉である帰納法の問題、哲学者デイビッド・ヒュームによって『人間本性論』『人間知性研究』で提示された帰納法の問題を取り上げ、次いでそれに対する認識論者であるカール・ポパーとイマヌエル・カントの回答を取り上げる。「もし経験も論理もそれをわれわれに確信させてくれないのだとすれば、物理法則が一瞬後にも有効であり続けるだろうということを、何が真に保証するのか――そればかりでなく、何が我々にそう確信させるのか」というヒュームが提示した問いに対して、ヒューム自身は「過去の経験的恒常性の習慣のみが、我々に未来も過去に似ているだろうと確信させるのだ」と結論付けた。一方、それに対しポパーは「保証するものなどは何もない」と答える。なぜなら「未来予想とは、新たな科学実験によって本質的に反証されうる理論的仮説であるのだから」と。つまり「ポパーにとって、理論を科学的にするものとは、それが原理的に実験によって反証可能なものであるという、まさにその事実なのである」。

そしてその上でメイヤスーはポパーはヒュームの問いを誤解している、あるいは取り違えていると述べる。「ヒュームの問題は単なる科学理論の恒常性ではなく、物理法則が説明するプロセス自体の恒常性に関わる」もの、つまりは「存在論的」なものである。しかし、それをポパーはあくまで「認識論」として捉えている。ポパーは、「新しい経験が我々の理論を反証するかもしれない」と言うが、しかし、一方で既存の公式に認められた実験が、未来永劫同じ結果をもたらし続けるだろうという点については決して疑っていない。つまり予想外の結果を生み出すのは予想外の環境なのである。そしてこれは、「もし、将来環境がこのように変わったら(例えば宇宙人が襲来したら)、未来はこうなるだろう」という意味でSF的な発想である。

一方、カントによるヒューイの問いへの回答は「もし、法則が必然的なものでないならば、いかなる世界もいかなる意識も生じず、一貫性のない純粋な多様体しかなくなるだろう。すなわちそこは純然たるカオスの世界となるだろう」というものである。このカントの説明はなるほどと思わせるものであるが、しかしそれも結局は「既存の公式に認められた実験が、未来永劫同じ結果をもたらし続けるだろう」といういわゆる「科学論」的な「認識論」があくまで前提とされているが故である。つまり、カントの言うところのカオスとは、単に「法則が必然的な世界」を裏返しただけのものである。

なお、このカントの見解に対してメイヤスーは「実際には、エクストロ=サイエンスの世界が、そしてこうした世界が複数あることさえもが、想像可能であること」を盾に異議を唱える。カオスの世界において意識が生じ得ないのであれば、カオスの世界(あるいはそれに近いもの)を我々人間が想像できるのはなぜなのだろうか、という反論である。「科学の条件が消滅する世界は、必ずしも意識の条件も同様に無効化される世界であるとは限らない。科学なき意識とは思考の崩壊ではない。」というメイヤスーの言葉はこのような議論の過程から生じたものである。そしてこのような考え方は、まさに「観念論から実在論への哲学的転換」(岩内,2021,p.20)、「存在を認識に還元してはならない」という「新しい実在論」のテーゼと重なる。そしてその上で、「、、、がある」という意味での「現実存在」と、「、、、は、、、である」という意味での「本質存在」とは、そのそもそもが違うものであると「新しい実在論」では考える。「、、、は、、、である」と考えること、考えざるを得ないことの背後には「認識論」の考え方があり、そしてその認識論が成立する背後には「既存の公式に認められた実験が、未来永劫同じ結果をもたらし続けるだろう」といういわゆる「科学的」な考え方が存在するというが故に、両者が結びついてしまうという指摘であり、批判である。そして、事実、、メイヤスーが我々の「想像力」を引き合いに述べたように、人間の「意識」、「思考」というものはそのような「認識論」や「科学」のみに基づくものだけではない。人間の「意識」、「思考」、「想像力」とは「認識論」や「科学」という制限を超えたもので、その意味でそれ(=「意識」「思考」「想像力」)自体が「存在論」的であり「形而上」なのである。「形而上」と「形而下」を分けるということは即ち二元論的な考え方であり、我々人類が長いこと陥ってきた罠である。我々が生きている世界は、それ自体が常に「、、、がある」という意味での「現実存在」(=「実存」)の世界であり、その意味での「存在論」(「新しい実在論」でいうところの「存在論」)の世界なのである。つまりそこでの「意識」(=「意識の条件」)とは「存在」そのもの、「実存」そのものであり、それは「認識(=科学)には還元してはならない」(=できない)ものなのである。「我思う、故に我あり」はまさにその通りで、どう思うか(=本質存在として自分をどうとらえるか)として「我」が「ある」のではなく、「思う=ある」という意味での「現実存在」(=「実存」)として自分が存在している(=「実存」している)し、また同時にそれだけだ、という意味なのである。そしてそれこそが「形而上」であり「存在論的」であるということなのである。

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