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第5部:VRにおける空間と世界:「実存」から「実在」へ(6)

6.ファンタスティックな空間としてのVR(3):光と線の空間としてのVRゲーム『Rez Infinite VR』

 フォトグラメトリーがそうであったように、見慣れたものの見た目を変える、そのことによってモノのモノ性を強調する、というのは、作者が意識的、意図的にそうしたものであるかそうでないかは別として、確かにVRワールド製作における表現技法のひとつであり効果であろう。また、現時点では、まだ技術がそこまで(解像度の高いものを表現するところまで)は追いついていないので、とりあえず、モノを簡略化して表現せざるを得ないというのも現実的な事情としてもあるのであろう。しかし、それが結果的に特異な空間、VRならではのなんともいえぬ独特の空間を生み出しているのもまた事実である。そして特異であるということは即ちファンタスティックである、ということである。

 ということでここで紹介し、考察したいのは、いわゆるVRワールドではないが、VRゲームの黎明期から(というかVR以前から)今も続く大ヒットゲーム『Rez Infinite VR』である。

 このゲームにおいてはプレーヤーは飛行体となる。この飛行体は基本的には腕を広げて空を飛ぶ人間のような形をしているが、しかし飛行機、航空体の形、すなわち機械の形をとることもある。プレーヤーはあくまでこの飛行体を操縦しているという体(テイ)ではあるが、VRならではの効果もあり(HMDを動かすことでの操作もできる)体感的にはプレーヤーはまさにこの飛行体そのものになることができる。より正確に言えば、その体感とは操縦者であると同時に操縦されているモノでもあるという何とも奇妙な感覚である。そしてその感覚こそがファンタスティックであり、このゲームの魅力なのである。
 ゲームとしての構造は単純である。プレーヤーは空を飛びながら前へ前へと進み(というかスピード調節の機能はないので進まされ)、現れてくる敵機をひたすら撃ち落とす。基本的にはただそれだけである。しかし、それでもこのゲームが魅力的で人気があるのは、先に述べたような何とも言えぬファンタスティックな感覚をこのゲームは引き起こすからであり、そしてそのファンタスティックな感覚の生成に貢献しているのは、このゲームの空間構造、このゲームにおける「モノ」の形態と動きであると言えよう。先にも述べたように基本的にこのゲームの世界は光と線、そしてその線の組み合わせとしてのキューブから成り立っている。当初は飛行体、飛翔体の形で表れてくる敵が次第にキューブとなり、そしてそのキューブが結合して今度は巨大なロボットとなる。しかし、キューブ体を結合しただけのものなので、そのロボットは正確にはロボットとは言えないであろう。小魚の群れが集まり大きな魚の魚影をつくりだしているようなものである。しかし、そこには魚の群れが生み出すような生々しさ、ある種のグロテスクさはない。その意味では、フォトグラメトリ―で作られた空間とは対極である。この世界は徹底した無機質の世界である。ロボットと言ってもそれはロボットではない。単なるキューブの集積である。「敵」というべき存在は存在し、それは攻撃もしてくるが、しかしそこに、その背後に「命ある者」の存在を感じることはない。「敵」は単にそうするようにプログラムされただけの存在のように見える。そして、そこにあるのは「意思」ではなく「反応」のみである。言い方を変えれば、「意思」がなくても「反応」はある。それが「モノ」の世界である。そしてそれは自分自身にも、プレーヤー自身にも跳ね返ってくる。一応のストーリーはこのゲームにもあるが、しかし、このゲームを通してプレーヤーが感じる快感は、言ってみれば「モノ」になる快感でもあると言えよう。先に「より正確に言えば操縦者であると同時に操縦されているモノでもあるという何とも奇妙な感覚である」と述べたが、その感覚は次第に「モノ」となることの魅力、「モノ」となることの快感の方へと変わっていく。「モノ」となって(事実、自分自身がキューブの集合体の形で構成されることもある)、言い換えれば「無心」となって、現れてくる「モノ」をひたすら打ち倒す、そこに意思はいらない、そこにあるのは反応だけ、という世界へと入り込んでいく。「快感」とはそれに浸る感覚であり、そしてそれ故の、浸りこむが故の快楽である。
 恐らくこれは人間にとっては危険な感覚であり、ある意味では危険な行為でもあろう。人間がその人間であるところを敢えて放棄することで、そこに快感、快楽を覚えるのだから。しかし、人間はそのようなことさえもできてしまうのである。薬物などを使用しなくても、環境さえ整えば、それができてしまうのである。

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