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第5部 VRにおける空間と世界:「実存」から「実在」へ (14)

VRからメタバースへ(2):「複人」から「複世界」へ

 そしてこのような考え方、「メタ」の位置に立つことによって「外部」にアクセスでき、さらには「パタ」の世界にもアクセスできる、という考え方は、当然、第4章で述べた「複人」の考え方ともつながる。筆者はそこで「複人」について平野(2012)の「分人」の考えを引きながら次のように述べていた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー平野は「個人を整数の1だとすると、分人は分数だ」という言い方をしていた。それに倣えば「個人を整数の1だとすると、複人は倍数だ」となろう。そして平野の言う「人格とは、その反復を通じて形成される一種のパターンである」は、ここでは「人格(=個人=私)とは、複人間の差異を通じて形成される常に変化を繰り返す「動き」である」となる。アバターが複人である以上、それぞれのアバターはそれぞれに「私」である。そして我々人間存在はその場その場において、自分で自分のドラマを作っていかなければならなかったように、それぞれのアバターの投企の方向、アンガージュマンの方向や方法はそれぞれに異なる。しかし、それでもそれぞれの複人としてのアバターはやはり「私」により結ばれているのである。たとえAというアバターとBというアバターの行動が矛盾したとしても、それはそれでやはり「私」なのである。というか矛盾しているからこそ「私」なのであり「私」の「実存」としての複人としてのアバターなのである。その意味で複人としてのアバターとはまさに「自由の受難」を引き受ける存在であり、だからこそそれを持つことで我々は「人間の条件」を改めて確認できるのである。
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先にSFの例を用いて説明したように、我々はある特定の作品を通してエクストロ=サイエンスの世界に至るのではない。様々なSF小説に親しむことで、言い換えれば様々なSFの世界を経験することにより、それを通してSFというものをメタ的に捉えることによって、その「外部」の世界に到達できるのである。そしてそれは「私」という存在に対しても言える。様々な「私」を身をもって(=アバターをもって)体験するからこそ、「私」は「私」の外部に接近できるのである。そして今度はそれを「世界」に対しても言えることになる。今や、我々はVRデバイスを通して、様々な世界に直接的に入れるようになった。そしてそれにより、我々は「現実の世界」と「もう一つの世界」ではなく、「現実の世界」も含めたさまざまなありうべき複数の世界を体験できるようになった(というかSFファンやアニメファンは既にそれができていたわけだが)。そしてそこからまさに身を持って体験できるのは、「偶然性こそが絶対的であり必然的である。」という「エクストロ(外部)」の世界の可能性とそれらの世界での「存在」について思弁すること、そのような能力を身に着けることであろう。そう考えると、「メタバース」という言葉は、現在使われているような意味からもう少し拡大した意味で捉える必要があるであろう。「メタバース」とは決して単にVR空間上での「もう一つの世界」を指すのではない。「メタバース」とは思弁的なものも含むさまざまなありうべき複数の世界の総称であり、その世界に参加することにより、世界をメタ的な視点、さらに言えばパタ的な視点から捉えることができるようになるということである。


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