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第5部 VRにおける空間と世界:「実存」から「実在」へ (15)

15. まとめに代えて:映画『フリーガイ』からの「メタバース」再考

 「メタバース」という言葉が一般的なモノとなったのも、ここ数年のことであるが、現在、「メタバース」というと、インターネット空間上に作られた仮想世界のことを指すことが多い。VRギアを装着させて、文字通りに「没入」できるものもあれば、あくまでPCやスマホ、タブレットの画面の向こうにその世界が広がっているものもある。メタバースはある意味「市場」としての側面もあるため(メタバースの内部で経済圏を形成することができるという意味で)、ベンチャーも含むいくつもの企業がその開発と普及に力を入れているが、今の現状では、それらはお互いにはつながっていない。その意味では、現状のメタバースはメタバースというよりも、むしろマルチバースといったほうがいいであろう。もちろん、あるメタバース(マルチバース)での名物キャラクター(アバター)が、プラットホームの垣根を越えて、他のプラットフォーム上に現れることはある。しかし、それが認められるというか成り立つのは、やはり現状のメタバース(マルチバース)が、現実の世界の存在を前提としているからである。現実の世界という基盤があるからこそ、それぞれのメタバース(マルチバース)は接合しうるのである。その意味では、現実の世界こそがメタバース(上位世界)であり、それぞれのメタバースはむしろ下位世界であるとも言えよう。事実、メタバースはこの現実世界の産物であり、そしてメタバースという「世界」を作ったという点で、我々人類は言ってみれば神のような存在である。

2021年のアメリカ映画『フリーガイ』はその点で、非常に興味深い作品である。ライアン・レイノルズ演じる主人公「ガイ(男)」はその名の通り、ゲーム世界の名もなきモブキャラの一人である。その世界に何の疑いもなく、むしろその世界の中で楽しみや幸せさえも見出していたその「ガイ」が、あることがきっかけで上位世界(=われわれ人間の世界)の存在を知り、またそれと共に「ガイ」にも自我(=サルトル的な意味での実存)を持つようになって、、、というのが大まかなストーリーなのだが、そちら側、ゲームの世界の住人側に視点を合てているのがこの映画の新しいところである。スピルバーグの『レディプレイヤー1』も、メタバースを描いている作品ですが、当然こちら側の世界からあちら側の世界を描いている。『マトリックス』も、私たちが現実と思っている世界は実は現実ではなかった、という話だが、そこではやはり現実側が「真実」で、仮想空間側は「虚構」とされている。しかし、『フリーガイ』においては、「ガイ」においては、ガイのいる世界こそが彼にとっては真実であるし、映画自体もその視点で描かれている(よって観客は「ガイ」に感情移入できる)。そこではもはや、何が真実で何が虚構か、どれが本物でどれが偽物か、どちらが上位でどちらが下位かなどは関係ない。そしてさらに言えば、「これって、私たちの世界でもそうなんじゃない」とみる側に考えさせる仕掛けになっている。我々が現実と思っているこの世界も、実は虚構なんじゃない?という思いであるが、そこまでは『マトリックス』でも言っていたことである。しかし、先にも述べたように『マトリックス』は、その上でも「どちらが真実でどちらが虚構か」という思考の壁を超えることはなかった。これはつまりは心身二元論の壁である。しかし、『フリーガイ』はその壁を軽々と、やすやすと乗り越える。というか壁を壁として気にしようともしない。ここで我々が改めて思い起こすのは、メイヤスーの思弁的存在論の考え方である。前節において「偶然性こそが絶対的であり必然的である。」という「エクストロ(外部)」の世界の可能性と、それらの世界での「存在」について思弁すること、そのような能力を身に着けること」と述べたが、この映画は、そこまでの「思弁」こそはしていないが(というか、もちろんこの映画は基本的にコメディーであり娯楽作品である)この映画が伝えようとしているメッセージは、製作者側がそこまで考えているかどうかは別としてまさにこのことであると言えよう。「ガイ」にとって、人間側、「ガイ」にとっては想像主とも言える人間側の存在は、確かに存在する(としか考えられない)世界である。しかし、だからといってこちら側の世界、「ガイ」の存在する世界が虚構なのかというとそんなことはない。というか、そもそもそんなことは問題にもならない。なぜなら「ガイ」はその世界の中でまさに「生きて」いるのだから。「エクストロ(外部)」において「世界」は複数存在し得る。そしてそれぞれの世界でそれぞれの生き方で生きていくことができる。筆者が「複人」という言葉で提案したのはそのような世界とそのような世界での生き方(サルトル的に言えば実存のあり方)である。そして筆者の言う「メタバース」とはそのような世界である。決して現実の世界という「上位世界」があり、それぞれの「メタバース(マルチバース)」という下位の多数の世界があるというものではない。先に「SF」の例を挙げたが、SFというジャンル自体が、それぞれの作品の差異や共通点から浮かび上がってくる一種の幻のようなもので、SFに限らず、すべての「ジャンル」というものはそういうものである。「ジャンル」という枠でくくってしまう時、我々はその「ジャンル」というものが「モノ」として存在すると考えてしまうがそうではない。ジャンルとはあくまで物事を整理するときのなにかについての集合的なあいまいなイメージでしかない。そしてそれこそが「メタ」であり「パタ」なのである。「メタ」や「パタ」というものがモノとして、あるいは世界として存在するのではない。それはあくまで「思弁」において「思弁的に」考えるときに出現するのである。そしてその意味でも、「メタ」の位置に立つことこそが「偶然性こそが絶対的であり必然的である。」という位置に立つこと、即ち「エクストロ(外部)」の世界に立ちうることなのである。




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