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第5部:VRにおける空間と世界:「実存」から「実在」へ(5)

ファンタスティックな空間としてのVR(2):「フォトグラメトリー」による「モノ」性の強調

 「Emma VR: Painting Life」においてはこの後、アトリエを抜け出て、作家のベッドルームに入ることで、この体のサイズの問題は一応解決されるのだが(しかし、「あれは何だったんだろう」という意味で、決して意味づけられる(処理される)ことはない)、今度はこのベッドルームも、よく見てみれば(というかよく見なくても)異様な空間である。
 実はこの空間、フォトグラメトリーと言われる技術を使って実際の(おそらく実際の)作家の寝室にある家具などが再現されている。フォトグラメトリーとは一言で言えば、写真を立体化する技術である。といっても、まだまだ精度は低く、それはゆがんでいる。例えて言えば、作成途中の粘土細工に彩色したようなものである。
 しかし、これがまた特殊の効果、人を戸惑わせる特殊な効果を生むことになる。サルトルの小説『嘔吐』において、主人公のロカンタンに吐き気を及ぼしたのはマロニエの木の根である。その瘤があり、異様にうねりまくった形が「それは木の根である」という認識を凌駕し、まさに「モノ自体」としてロカンタンに迫ってきたからである。そしてそれと同じ効果、認識可能な「モノ」ではあるが、しかし同時に認識を超えてくるもの、認識を否定してくるもの、認識をずらしてくるものとして、これらの家具は迫ってくる。それは戸惑いというよりも、もはや不気味であり、ある意味不快、グロテスクでもある。しかし、まさに『嘔吐』におけるマロニエの木の根がそうであったように、グロテスクであることこそが「モノ自体」のある意味本質(認識にとっての本質ではなく、モノ自体としての本質)なのである。認識される以前のモノ、意味づけられる以前のモノとはグロテスクであり、だからこそ人に不安を与えるのである。
 しかし、また、次のように考えることもできよう。我々人間にとって、モノがモノ(この場合は認識されるものとしてのモノ)として捉えられているのは、我々の視覚の解像度がそのようなものになっているからであると。つまり、視覚の解像度の低い動物にとっては、モノというものはこのフォトグラメトリーのように見えているのかもしれない。そちらのほうが動物にとっては「リアル」なのかもしれない。また、我々より視覚の解像度が高い生命体にとっては、我々の見ている世界こそがこのフォトグラメトリーのように見えているのかもしれない、と。そしてここにおいて、今度は「戸惑い」は身体のサイズについての戸惑いではなく、自分という生物についての「戸惑い」へと変化する。世界が変わったのではなく、私の方が、私の認識、私の視覚、私の感覚の方が変わってしまったのでは、という戸惑いである。そしてそれは事実である。VR世界に入ることで、人は認識が変わる。意識において認識が変わる(=世界に対する認識が変わる)のではなく、まさに体験において認識が変わる(=私をも含む世界自体が変わる)のである。そしてその世界ではモノのモノ性が、モノ自体が持つグロテスクさが、これでもかと強調されている。そこで人が体験するのは、私がモノを意味づけているのではなく、モノの方が私を意味づけているという体験である。しかし、これはいわゆる心身二元論において、身(=モノとしての肉体)の方の優位性を強調するものではない。ここで繰り返されるのは「存在を認識に還元してはならない」という新しい存在論のテーゼである。存在論と認識論は別々のものであるし、別々に考えなければならない。つまり、ここで人が体験するのは、モノがそこに存在するというその圧倒的な事実である。そして、私自身もモノであるという圧倒的な事実である。そしてさらに言えば、存在論と認識論は別々のものであるし、別々に考えなければならないが、それでもなお、モノの「存在」=「実在」は、私の認識に迫ってくる、という事実である。それは快感でもありまた不快でもある。つまりは戸惑いであり、不安であり即ちファンタスティックな感覚として迫ってくる。
 なお、フォトグラメトリーを使ったより大規模な作品としては、STYLY上には『"Zeniarai Benten" Shrine』という作品もある。ここも是非訪れて欲しいVR空間である。

ここで再現されているのは「銭洗弁財天」という実在する神社であるが、このフォトグラメトリ―を用いたVR空間上の『"Zeniarai Benten" Shrine』はもはや魔界であり異界であるような空間である。神舎仏閣が魔界や異界への入り口であるとはよく言われるが、なるほど、そうであるということに改めて気づかされる。普段は意識しておらず、それこそ分かったつもりになっているが、神社仏閣は基本的に異常な空間、過剰な空間なのである。事実、神舎仏閣には、よく考えてみると訳の分からないもの、なぜここにこれがあるのかがわからないものも多い(もちろん宗教的、教義的には説明がつくのだろうが)。『"Zeniarai Benten" Shrine』においてはフォトグラメトリー技術を使用することでは明らかにその過剰さ、その訳の分からなさ、その異様さ、言い換えれば不気味さを強調、増幅させている。そして一度この『"Zeniarai Benten" Shrine』を訪ねた後で、近くの神舎仏閣を訪ねてみると、もう、そこはあなたにとって、今までの見慣れた空間となく、異界として映ることであろう。あなたの認識は変わった、変わったというか広がったのである。

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