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第3部 Vtuber/Vライバー論:キズナアイという「存在」(13)

13.「分人」から「複人」へ(3):「複人」としての「アンガジュマン」とその行使

そして同じこと、「個人」の完成という形でのゴールはないということは「人間」であるこの作品の主人公についても言える。主人公自体も母の死後、何人かの人と出会い、やり取りすることで変化=成長していく。しかしそれは決して「自己統一性」としての「アイデンティティの確立」(=個人としての浸透、融合、あるいは分裂)というものではない。それはむしろ自分自身の「複人」を様々な「他者」との関係性において構築していくというプロセスとなっている。そして同時にその複人間の関係性の構築もそこでは行われる。混ざり合わない複人同士を混ざり合わないもの(=他者)として捉えた(認めた)上で、しかし完全に切り離されたものとしてではなく、関係性、関連性はあるものとして捉え、その関係性、関連性を構築していくというプロセスである。そしてその「関係性、関連性」とは、その形、あり方は常に変化しながらも、しかし、関係、関連は常にあるという意味での「関係性、関連性」となっている。

さて、こう考えると、先に「平野(2012)の「一人の人間の中の分人は、どこかで浸透し合うべきなのだろうか。それとも完全に切り離されたものなのだろうか」という問いは「「複人」としての「私」はそれぞれの複人とどう関係性、態度を構築していくか」という問いへと置き換えられる」と述べたことを、また違う観点から深堀りすることができよう。「複人」という概念を取り入れることで、平野の「一人の人間の中の分人は、どこかで浸透し合うべきなのだろうか。それとも完全に切り離されたものなのだろうか」という問いは無効化される。なぜならこの問いは、浸透か、切り離しかという形で、あくまで「総和が1としての個人」を前提としているからである。既に述べたように「複人」の総和は「1」を超える複数である。そしてそれ故に浸透(融合)でも、切り離し(分裂)でもない形での、複人の集合体としての一人の人間のあり方というものを考えることができる。そしてそこで問われるべき問いは「総和=1としての個人における浸透(融合)か切り離し(分裂)か」ではなく、「では、どうすれば総和=1以上である複人間の関係性、態度を構築していくか」という問いとなる。そしてその「どうすれば」の部分のヒントとなるのが本章第8節でもみたサルトルの言うところの「アンガジュマン」であり、その行使である。

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