8/10-11

8/10の午前にはバイトがあり、午後からは吹田キャンパスへ行って研究会に参加してきた。学部のプロジェクトとしてハイデガー『存在と時間』の研究会を始めてからおよそ半年が経ったが、進捗としてはまだ全体の四分の一程度しか読み進められていない。このペースでいくと卒業まで続けても読み終わるかかなり怪しいところだが、まあこれはこれで良いのではないかと思うようになってきた。

帰宅してからは日記を書く暇もなく倒れこむように寝てしまい、再び目を覚ますと朝の四時になっていた。どうしてこれほどに疲れていたのかは自分でも分からないが、思えばバイトの翌日はいつもこうなっている気がする。気怠さを追い払うために寮の中庭に出て夜風に当たっていると何とも心地が良く、夏の間は完全に昼夜を逆転させた生活を送ろうかと真剣に考えたほどだった。

カメラロールに残っていた写真

結局日が昇り始めるまで中庭にいて、朝の訪れとともに再び部屋に戻って眠った。それほど長く外にいて何を考えていたのかはよく覚えていないが、ふと自分が実家を離れて大阪にいることが本当に不思議で、不条理に感じられたことは覚えている。長期休暇に帰省して故郷の街路を歩くたびに、まさか思い出すとは思っていなかったような無数の些細な記憶が立ち上ってきて、自分がこれほど多くの思い出をこの場に置いてきてしまったという事実に愕然とさせられることがある。それと同じようにして、私は今大阪の風景に断片的な記憶を堆積させつつあるのだろう。そう言えば、先日祖母の家で発見して自宅に引き取ってきたドゥルーズ+ガタリ『千のプラトー』に、次の一節があったことを思い出す。

短い記憶は少しも、対象との隣接性あるいは直接性の法則にしたがっているわけではない。[…]〈短い観念〉のきらめき──たとえ長い概念の長い記憶によって読み、かつ読み返すにしても、人がものを書くのは短い記憶によって、したがって短い観念によってなのだ。

ドゥルーズ+ガタリ『千のプラトー』p28-29

「これまでの人生」や「大学時代の思い出」、あるいは「学生の頃に力を入れたこと」──そういった種類の「長い記憶」に回収されず、一貫性から外れたところで常に蠢いている「短い記憶」を保存しておくために私は書いている。それはただ単に私が、そういったものが失われてしまうことを偏執狂的に恐れている人間であるからに過ぎないのだが。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?