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最後の期末レポートを書き終わった。厳密にいえばまだ夏休みではないが、やらなければならないことは概ね終わったと言ってよい。かといって開放感のようなものは別段ない。毎年この時期になって、自分は長期休暇がそこまで好きでなかったことを思い出すのである。正直に言って、夏に集中的に休みを入れるくらいだったら、その分の60日で一週間の休日をもう一日増やしてくれた方がありがたい。

私は夏休みになると人と会わなくなる。もちろん帰省やサークルやバイトやゼミ行事などで人と接する機会はそれなりにあるのだが、基本的に自分から「人と会う」という選択肢を選ぶことがなくなる。単純に自分はそういう人間なのだと、最近になって分かってきた。
その代わり、長期休暇中の私は基本的に街を歩き続けている。大体昼頃に目覚めて、日が落ちて暑さが和らぐまで家にいて、そして10時ごろから日付が変わるまで延々と住宅街を練り歩いている。何故だか分からないが、そうしていると不思議と心が慰められるのだ。不格好な歩き方で削れていく靴底や、疲弊して棒のごとく膠着していく両脚のように、自分そのものを使い果たしてしまいたいという欲望が私にはあるのかもしれない。

レポートのためにメルロ=ポンティを読んでいた。課題の『世界の散文』はただでさえ難解な上に未完であるせいかまどろっこしい言い回しが多く、読んでいて相当辟易した。それでも何とかレポートを書き上げることができ、今になって思い返してみると次の部分が最も印象に残っている。

文学の愛好者たちはこう考える──何と、これが、私があれほど尊敬している作家のその時代にやったことなのか、これが彼の住んでいる家なのか、これが彼が一緒に暮らしていた女なのか、彼はこんな小さな気苦労に煩わされていたのか、と。[…]われわれが愛する女に再会したり作家と知り合いになるとき、われわれは愚かにも、彼らの現前の各瞬間に、彼らの名前と結びつけ習わしてきたあの輝やくばかりの本質、あの非の打ちどころのない言葉に出会わないことに失望する。だが、その時こそ、幻惑(時にはねたみ、秘かな憎しみ)に陥っているのだ。成熟の第二段階とは、超人は存在しないし、人生を生きなくてもいい人間は存在しないということ、そして愛する女や作家や画家の秘密も、[…]彼らの世界の知覚と控えめに混り合っていて、その秘密だけを切り離してそれと対面することなどは論外だということを知ることである。

モーリス・メルロ=ポンティ──『世界の散文』p94-95

あらゆる表現の基盤には「身体」があるといういかにもメルロ=ポンティ的な思想を、この一節は分かりやすく言い直しているに過ぎない。にもかかわらずこれが私の心を惹きつけたのは、「人生を生きなくてもいい人間は存在しない」という事実を自分が時々忘れそうになってしまうからだ。
誰もが各々の身体でこの世界を知覚し、それぞれの仕方で人生を生き、個人的な生活に埋没しているということを、幻滅でなく喜びを持って受け入れることはできないだろうか。このような壮大なことを書くと言葉が上滑りするようで死ぬほどもどかしくて恥ずかしいが、とにかくそういったことを考えながら『世界の散文』を読んでいた。

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